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クルマ最終更新日:2018.03.30 公開日:2018.03.30

暴走族構成員数とグループ数の推移。1973年から2016年まで

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 昭和の頃に比べると、近年は暴走族を見かけることが少なくなり、見かけても昔と比べるとだいぶ規模が小さくなってきているようである。構成員もグループも大きく数を減らしているようだが、実体はどうなのだろうか。

 そこで、法務省が毎年発表している「犯罪白書」や、警察庁が同じく毎年発表している「警察白書」から、暴走族の誕生や変遷といった歴史と、警察庁が統計として発表している暴走族の構成員数およびグループ数の推移を取り上げてみる。

 ここでいう暴走族とは、警察庁の定義に従った。共同危険行為などの禁止を扱う道路交通法第68条に違反する者、そのほか自動車などの運転に関して著しく道路における交通の危険を生じさせ、または著しく他人に迷惑を及ぼす行為を集団的に行い、または行う恐れがある者のことをいう。

暴走族の歴史と変遷

 「カミナリ族」という名前を懐かしく思う方もいることだろう。1981年の警察白書によると、暴走族は1950年代半ば頃に登場したそのカミナリ族まで歴史を遡れるとされる。それ以前もバイクで危険走行を行う若者たちが散発的に事故を起こしていたようだが、大きな社会問題とまでは至っていなかったようだ。

 それが、1950年代半ばになると、若者たちは愛車のスピードアップのため、マフラー(サイレンサー)を外すようになる。マフラーはエンジン内の燃焼で発生する爆音を吸収する仕組みだが、排気ガスの抵抗が増してしまうため、エンジンの出力を低下させてしまう。そこでマフラーを取り外してエンジンの出力を上げようというわけだが、当然ながら騒音を街中にまき散らすようになり、「カミナリ族」と呼ばれるようになった。

 その後、1960年代半ばになると、カミナリ族の中から、ただ走り回るのではなく、「サーキット遊び」と呼ばれる、決まった街頭での危険走行を夜通しで行うようなグループが登場してくる。クルマ(四輪)のカミナリ族も登場するようになり、さらに暴走行為を見物して楽しむ若者たちも増えていき、そして全国に広まっていったのである。

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カミナリ族から暴走族へ! その誕生に迫る

カミナリ族から暴走族へ

 そんなカミナリ族が暴走族と呼ばれるようになったきっかけは、1969年5月に名古屋市テレビ塔付近で行われた街頭サーキット騒ぎとされる。それまでは、基本的にはバイクやクルマを用いて騒音をまき散らし危険走行を行う集団だったわけだが、この事件では、多数の見物の若者たちも含めて約1000人が暴徒化。一般車をひっくり返すなどの破壊活動を行った。

 さらに決定的となったのが、1972年6月17日の事件だ。同日の深夜から18日の早朝にかけて、富山市の当時の国鉄駅前でサーキット遊びに興じていたカミナリ族と見物の若者たち約3000人が暴徒と化し、近辺の商店や通りがかりの一般車を襲って破壊するという行為を行った。当時、それは大ニュースとなり、マスコミはこぞって「暴走族」と呼称。それが一般にも浸透していった。その後、暴走族の多くが悪質化し、非行少年の温床となっていったのである。

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暴走族のグループ数は、1997年に初めて4桁に突入し、ピークは2002年。1313グループを数えた。その後は減少に移り、2016年時点で193グループ。なお、近年は成人による暴走族といわれる「旧車會」の割合が増えている。

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暴走族の構成員は何年が最多だったのか?

ピークは4万2510人を数えた1982年

 暴走族は日本中にグループが勃興し、1980年代に入ると構成員は4万人を突破、1982年に4万2510人を数えた。

 ただし、1978年に道路交通法第68条として、集団暴走そのものを罰する新規定「共同危険行為」が設けられ、警察の取り締まりが厳しくなったことに加え、学校や家庭も含めた地域ぐるみの対策(暴走族への加入阻止、暴走族からの離脱・立ち直り支援)、不正改造業者の摘発などにより徐々に人数を減らし、解散するグループも増えていく。そして、1982年を境に減少傾向に移ったのである。

 さらに近年では少子化により暴走族に憧れる若者そのものが激減。2003年に2万人を切り、2008年には1万人を切った。そして2016年時点で5265人と、ピーク時の8分の1ほどにまで減っている。これが、近年、暴走族を見かける機会が減っている大きな理由である。

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1973年~75年の3年間は、成年・未成年の内訳が不明で、総数をグラフ化した。いつの年代においても成年は割合として少ないのは、暴走族の世界も大人になったら卒業(少年法のカサの下にいられなくなるなどの理由で)とされる。ピークは1982年の4万2510人。2016年は5265人で、毎年のごとく減少を続けている。

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昭和と現代の暴走族の違いなど

暴走族も大きく様変わりした

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グラフを縮小して掲載。左が構成員数、右がグループ数の変遷。ピーク時が大きくずれている。

 なお、構成員数とグループ数のグラフを並べてみた。気づくのは、ピーク時期のずれだ。

 構成員数が4万2510人で1982年にピークとなったときは712グループで、1グループ平均60人弱。しかし、2002年時点にグループ数が1313グループでピークを迎えたときの構成員数は2万1178人と大きく減っている。このときの1グループ平均は16人強だ。昭和の暴走族は数百台で構成されるような大所帯のグループも多かったが、徐々に1グループ当たりの人数が減っていき、代わりに少数のグループが増えていったことがわかる。なお、近年はグループ数の減少度合いの方が大きいため、2016年の1グループ平均の構成員数は27人強だ。

 また昭和の時代と現代とでは暴走族のスタイルや、構成員の見た目なども大きく様変わりした。1960年代半ばから2010年ぐらい(昭和40年代から平成10年代)までの暴走族の特徴としては、大集団で暴走するほか、無免許運転者が多く、暴走族同士の対立抗争を初めとする悪質な事件が多かったことなども挙げられる。ノーヘルおよび”特攻服”ファッション、違法改造バイク(ロケットカウル、三段シート、エビテール)などの見た目も特徴的だった。

 それが、平成20年代に入ってくると、グループ数も大きく数を減らしていき、1グループも少人数になっていく。現在は、暴走行為への参加を募るためにSNSも利用されているという。しかも免許取得者が多くなってヘルメットも着用するという傾向で、ファッションも昭和のような特攻服はなかなか見かけなくなってきた。バイクよりもスクーターが多くなっている点も特徴だ。

 そのほか近年の特徴としては、過去の暴走族経験者による「旧車會」が生まれたことだろうか。

2018年3月30日(JAFメディアワークス IT Media部 日高 保)

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