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最終更新日:2022.04.15 公開日:2022.04.15

特集|東日本大震災、震災後の記事を振り返る【再掲記事】

東日本大震災から11年。 傷を癒やすには短すぎるものの、記憶が薄れるには十分な時間かもしれません。 しかし、地震列島で暮らす私達は、次の大震災に備えるためにも、この経験を覚えておく必要があります。 「くるくら」では、震災と復興の記憶を呼び戻すため、震災3年後の被災地の状況を伝えた記事を再掲することにしました。 当時の記事内容そのままであり、現在の状況ではありませんのでご注意ください。

文=くるくら編集部

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本記事は2014年2月に「メイトパーク」(「くるくら」の元サイト)に掲載した内容の再掲です。現状を伝える記事ではありませんのでご注意ください。2022年3月11日(金)から、毎週1話ずつ更新予定です。


第1回:千葉県浦安市

2011年3月11日、東日本大震災発生。東京都に隣接する千葉県浦安市では、震度5強を観測、東京湾に埋め立てられた地域を中心に、市域の約86%が液状化した。泥や泥水が吹き上がり、道路は陥没、家は傾き、上下水道やガスなどのライフランもストップ。死者などの重篤な人的被害はなかったものの、液状化のおそろしさをまざまざと見せつけた。(→続きを読む)

第2回:茨城県笠間市

笠間焼は、水戸市の西部にある笠間市で江戸時代から200年続く陶業だ。かつては階段状に窯を並べた登り窯を用いて、すり鉢など台所で使われる陶器を大量に製造していた。プラスチックの器が普及した現在では、作家の個性を生かした、より芸術性を高めた工芸作品の創出にも力を注いでいる。東日本大震災は、そんな陶芸の里も揺さぶった。(→続きを読む)

第3回:茨城県大洗町

茨城県中部の大洗港フェリー埠頭では、震災当日、前日北海道を発った商船三井フェリーの「さんふらわあ ふらの」が午後1時55分に到着し、午後6時30分の出港に向けて荷揚げ作業や船内の清掃などを行っていた。同船の坂上幹郎船長は、運動不足の解消にと、いったん下船して周囲をジョギングしていた。「そうしたら、今まで体験したこともないような、大きな揺れに見舞われました」。 午後2時46分、東日本大震災の発生だった。(→続きを読む)

第4回:福島県飯館村

東日本大震災に端を発した福島第一原発の事故後、原発から20余kmに位置する福島県飯館村は計画的避難区域に指定され、全村民が村外へ避難しなければならなくなった。そして、避難期限の1か月後、住民がいなくなった村に残されたのは飼い犬と飼い猫だった。もちろん、残したくて残したわけではない。同村の避難先は動物の飼育が禁止のため、やむなく残すしかなかったのである。(→続きを読む)

第5回:福島県浪江町

東日本大震災の翌日、福島第一原発1号機の建屋が爆発し、避難指示の範囲がそれまでの原発3km圏内から20km圏内に拡大した。その後も、原発の建屋が次々と爆発。騒然とするなかで、住民は取るものも取りあえず避難を急ぐしかなく、すぐに町は無人となった。エム牧場浪江農場は、原発から14kmの距離にある。その農場長であった吉沢正巳さんは、ホームセンターで買い物中に被災した。(→続きを読む)

第6回:宮城県仙台市周辺(1)

東北の中核都市宮城県・仙台市。市中心部の復旧は比較的早かった。復興需要もあり人、物、金が流れ込んでいる。それを象徴するかのように、年末の中心部は華やかなイルミネーションが輝き、多くの人で賑わっていた。プロ野球の楽天球団優勝の旗や横断幕があちこちに残っていて、優勝時の歓喜の様子を物語っていた。(→続きを読む)

第7回:宮城県仙台市周辺(2)

名取市とさらに南の岩沼市をまたいで仙台空港がある。地震直後、流されてきた数千台の車や瓦礫が滑走路を埋めつくしたが、自衛隊や米軍、自治体の協力で滑走路を1ヶ月ほどで復旧した。当時は救援物資が不足していて、滑走路はそれら空輸に欠かせなかったためだ。その後、空港ビル機能が復旧。初めて民間機から旅客が降り立ったときは関係者の努力に頭が下がる思いだったと、仙台空港ビルの石森純一取締役は語った。(→続きを読む)

第8回:宮城県女川町

宮城県の東端に位置し、太平洋に面する宮城県女川町は、日本有数の漁港がある小さな港町。水産業が町の一大基幹産業であり、銀鮭、ホヤ、牡蠣の養殖も盛んで、震災前はサンマの水揚げ量も全国トップクラスの業績を誇っていた。高台から町を眺めてみると、穏やかで、美しい海が目の前に広がる。皮肉なことに、あの日、牙を剥いたこの海だけが、震災前と変わらない景色として目の前にあるのだ。(→続きを読む)

第9回:宮城県石巻市

東日本大震災の津波の被害により、市内の平野部の約30%が浸水、被災住宅数は76.6%と、市町村単位では最も大きな被害を受けた宮城県石巻市。未曾有の津波は海からだけでなく川を遡上して街を襲い、多くの尊い命を奪った。石巻市の死者・行方不明者は3,600名に及ぶ。(※数字データ=平成25年12月末のもの、石巻市HPより)(→続きを読む)

第10回:岩手県陸前高田市(1)

陸前高田市は岩手県南部の海に面した地域。市街地のほとんどが平坦な土地にあったため、津波の被害が大きく、県内で最も死者数が多かった地域だ(平成25年末現在、死者1599人、行方不明者215人)。そんな陸前高田市の仮設住宅に住む佐藤一男さん(47歳)から、「正月に祭りがあり、獅子舞が仮設住宅も回ります」と聞き、1月2日に現地に入った。(→続きを読む)

第11回:岩手県陸前高田市(2)

1月3日、陸前高田市の広田湾で牡蠣の養殖をしている佐々木学さん(30歳)に同行し、今年の初水揚げを取材した。朝5時、満天の星のもと、佐々木さん親子が乗る小型の漁船が脇ノ沢漁港を出港した。湾内には牡蠣を養殖する筏(いかだ)が多数ある。2年前に種付けし、選別してから育てた牡蠣を引き上げるのである。牡蠣の出荷は震災から1年後には始まっていたが、震災前のわずか1割程度。震災で破壊された滅菌施設が昨年の11月にやっと完成し、生食用の牡蠣の出荷ができるようになった。(→続きを読む)

第12回:岩手県山田町

語り部タクシーは一昨年の1月からやっています。山田町では800人以上が亡くなり、100人以上が行方不明のままです。津波は当日8mの高さまで届きました。山田町には二つの方向から津波が押し寄せ、ぶつかり、さらに盛り上がって襲ってきたんです。地震の後、5分から10分で波が引けているのが海ぎわの自宅から見えました。私はタクシー会社をやっていたので、まず営業車を移動させて、その後戻って3台車を避難させました。(→続きを読む)

第13回:三陸鉄道

震災学習列車の取り組みは2012年6月から始めまして、2014年1月末までで157団体、7,381名の方が参加されています。アメリカ、オーストラリア、中国、フィリピンなど海外からの参加もあります。貸切の列車に乗ってもらい、40分の区間を70分かけながら、ガイドが震災時のお話をします。途中線路上で列車を止めてお話することもあります。(→続きを読む)

第14回:岩手県宮古市

田老地区は、放射状に道路が整備され、40か所以上の避難場所がありました。津波が来るまで45分の時間がありましたが、181名の人が亡くなりました。原因としては地震後に停電が起こり、なぜか防災無線が不通になって津波警報が届かなかったこと。そして、防潮堤があるので安心していたということもあります。日本で一番の防潮堤があった。そのことで逆に、「逃げる」という気持ちが足りなかったのです。(→続きを読む)

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