クルマのある暮らしをもっと豊かに、もっと楽しく

Traffic

最終更新日:2022.04.22 公開日:2022.04.22

【再掲記事】進む復興 浮き彫りになる問題点/仙台(2)|東日本大震災、震災後の記事を振り返る

東日本大震災から11年。次の大震災に備えて、この経験をしっかり覚えておくために、「くるくら」では震災3年後の被災地の状況を伝えた記事を再掲することにしました。7回目は「進む復興 浮き彫りになる問題点/仙台(2)」です。

文・写真=伊東真一

記事の画像ギャラリーを見る

本記事は2014年2月に「メイトパーク」(「くるくら」の元サイト)に掲載した内容の再掲です。現状を伝える記事ではありませんのでご注意ください。


地震直後に避難者であふれる仙台空港ビル(左)、瓦礫の撤去を行う米兵ら(中央)、震災後に民間機から降り立つ旅客(右)

それぞれが思いを乗せて復興へ

 名取市とさらに南の岩沼市をまたいで仙台空港がある。地震直後、流されてきた数千台の車や瓦礫が滑走路を埋めつくしたが、自衛隊や米軍、自治体の協力で滑走路を1ヶ月ほどで復旧した。当時は救援物資が不足していて、滑走路はそれら空輸に欠かせなかったためだ。

 その後、空港ビル機能が復旧。初めて民間機から旅客が降り立ったときは関係者の努力に頭が下がる思いだったと、仙台空港ビルの石森純一取締役は語った。「空港のターミナルビルには地震直後に、空港利用者や近隣住民、職員など約1700名が避難しました。周辺一帯が冠水し近付けず、ライフラインもすべて遮断された中、航空会社やビル内の店舗に協力を仰ぎ、避難者に物資を供しました。そうした作業を、自分家族の安否も不明な職員や関係者が懸命におこなった。その献身的な行動と、避難者の自制心に支えられ、一人の死傷者も出すことなく乗り切ることができました」

ひっきりなしに飛行機が離着陸していたが、それでも国際線を中心に旅客数が落ち込んでいるという。

 現在の状況は「国際線の落ち込みが著しい。中国や韓国からの便については、政治的な影響も相当にありますが、原発事故の風評被害も無視できません」と語る。福島原発から80km程度離れているとはいえ、海外からはほとんど同地域と見られていると分析する。だが「震災によって復興ツーリズムという新たな旅行形態に注目が集まっています。今後は自治体などと連携して、オール東北として内外からの旅行者数の増加を図ることで、復興を盛りたてていきたい」と意気込む。

旅行者数を増やして復興をさらに前進させたいとする仙台空港ビルの石森氏。

 小野幸助さんは、年間30棟ほどの住宅を建設する設計工務店を仙台市内で営む。地元産の木材を伝統工法で組み上げ家を建てている。震災直後は従業員とともにボランティアで県内各地を飛び回っていたという。泥の掻き出しや仮設風呂の設置などを行った。「全国の同業者や仲間からの、資材供給や義捐金に助けられました。自分たちも被災者だったし相当な持ち出しもあったけれど、大変なのはみんな一緒だったから、とにかく社を上げて行動したんです」

 現在の復興需要については、「公共工事の多い土木関係は好調だと聞いています。けれど我々地場の中小建築業は苦しいところが多い」と話す。大手住宅メーカーや東北外からのデベロッパーが業績を伸ばす中、小野さんの会社は職人の引き抜きにあった。さらにオリンピック開催の盛り上がりに水を差すつもりはまったくないと前置きした上で、「現在でも人不足、資材の高騰に頭を抱えているのに、膨大な建設資材が必要なオリンピック需要に、追い討ちをかけられる」という。職人の人件費が1.5倍、コンクリートや鉄筋などの資材費が倍になることもあるなか、「需要以上に原価の高騰が激しく、巷で言われているような利益は出ていません。けれど、倍の給料を断ってうちに残ってくれた人間や、価格を震災前の水準で提供してくれる材木屋さん、考え方に共感してくださるお客さんなどに支えられているんで、絶対に建築をあきらめない。原発依存や石油でできた家がボコボコ建っていく、そんな形で震災復興が進む事に、未来に対してこのままではいけないという責任を感じています。だから、夏は風通しが良く、冬は薪ストーブやペレットストーブを使う。原発に依存したエネルギーを使わない、いろんな意味でタフな住宅を、できる限りたくさん作っていく。50年後100年後の子供達にちゃんと胸を張れる暮らしを作っていきたいと思っています」と話した。

 人々の思いを原動力に復興は加速する。

豊かで安全な暮らしを作って、未来の子供達に胸を張って受け継がせたいと語る小野氏。

薪や木質ペレットを使うストーブは、環境負荷が少なく熱量も大きいので、建築した家には積極的に導入しているそうだ。炎は見た目にも暖かい。


●震災から11年、取材当時を振り返って

 被災地出身の私にとって、震災から3年を経た当時でも「重い」取材でした。

 父方の実家が津波で流されたとき、私は東京の編集部勤務でした。何一つ助けることができなかったため、なぜ地元を離れたのかという悔恨がありました。 震災直後、両親や友人からは「気にせずそっち(東京)で頑張れ」と言われていましたが、少なからず地元に対する贖罪に似た気持ちがずっとありました。 そうした気持ちを持っていることを、当時取材した方に伝えると「震災を、忘れるでも背負うでもなくて、その記憶にそっと寄り添いながら自分の道を行くしかないんですよ」とアドバイスされました。罪の意識を持つのは違うのだと、気付かされた言葉でした。

 11年目の今年、3月16日夜に宮城県と福島県で震度6強の地震が発生。この地震により、東北新幹線が脱線し一部区間が不通となりました。航空各社と仙台空港は、羽田と結ぶ臨時便の運行を即断しました。「できることを探し、最善を尽くす」仙台空港で取材した言葉が蘇りました。 記者職を離れた今も、私は強い地元に勇気付けられています。

記事の画像ギャラリーを見る

この記事をシェア

  

Campaign

応募はこちら!(12月1日まで)
応募はこちら!(12月1日まで)