【再掲記事】港からはじまる新しい町づくり/宮城県牡鹿郡女川町|東日本大震災、震災後の記事を振り返る
東日本大震災から11年。次の大震災に備えて、この経験をしっかり覚えておくために、「くるくら」では震災3年後の被災地の状況を伝えた記事を再掲することにしました。8回目は「港からはじまる新しい町づくり/宮城県牡鹿郡女川町」です。
本記事は2014年2月に「メイトパーク」(「くるくら」の元サイト)に掲載した内容の再掲です。現状を伝える記事ではありませんのでご注意ください。
港からはじまる新しい町づくり
宮城県の東端に位置し、太平洋に面する宮城県女川町は、日本有数の漁港がある小さな港町。水産業が町の一大基幹産業であり、銀鮭、ホヤ、牡蠣の養殖も盛んで、震災前はサンマの水揚げ量も全国トップクラスの業績を誇っていた。
高台から町を眺めてみると、穏やかで、美しい海が目の前に広がる。皮肉なことに、あの日、牙を剥いたこの海だけが、震災前と変わらない景色として目の前にあるのだ。
あの日は、ちょうど半年間かけて育てた銀鮭の初水揚げの日だった。町を襲った大津波は15メートルにも及び、死者・行方不明者は831名。中心市街地を含む町の7割が流出し、大津波は町とともに、船や養殖施設も容赦なく飲み込んでしまった。
「女川町は市場を中心に水産加工場があって、それらを取り囲むように商店街があって……と、海を中心に成り立っていた町なんです。これからも海と共存していかなければならない。町の基盤を取り戻すためには、いち早く”働く場所”を取り戻す必要があった」
女川町復興推進課の柳沼利明さんは語る。
「時間のかかる政府の補助金を待っている時間はなかった。多くの人が水産業に携わる小さな町なので、働く場所がなければ、人口は外に流出してしまう……」
そこで、カタール政府が被災地支援を目的に設立した「カタールフレンド基金」に水産業界が手をあげた。この基金は、カタール政府からの総額80億円(1億米ドル)の寄付金により設立されたもので、被害の大きかった岩手、宮城、福島の「教育」、「健康」、「水産業」の3分野のプロジェクトを支援対象としたものだ。女川町はこの支援を受け、震災の翌年11月に最新型の冷凍冷蔵施設「マスカー(※)」を設立。総工費は約20億円。建物には津波対策も施され、万一の場合は屋上へ避難もできる。マスカーを早期設置したことにより、女川町は再び水産業の町として立ち上がり、加速度をあげ、復興に向かって動き始めた。被災地のなかでは比較的早く、具体的な町づくり計画や災害復興住宅の設置などが進んでいるそうだ。
石巻市内から女川町へ車で向かうと、右手に万石浦湾が広がる。その道路に並走する形で、昨年3月に運行が再開したJR石巻線の線路が続く。今は女川駅のひとつ手前、浦宿駅までの運行だが、来年の春には女川駅を200mほど内陸に移した形で、浦宿-女川間が開通の予定。この新しくできる女川駅が、町のにぎわい拠点となる。訪れた人だけでなく、地元の人々の憩いの場になるようにと、温泉施設や足湯なども計画され、商店街も駅のまわりに誘致する計画だ。具体的なプランも立ち、開通に合わせて急ピッチで造成工事が進められている。
もちろん、新しい町づくりには震災の教訓が生かされる。住宅地を高台へ整備するのはもちろんだが、目指すのは「コンパクトな町づくり」。今回の震災では、情報がうまく行き渡らなかったことが、被害の拡大へとつながってしまった。そこで、町の基幹産業を担う水産業は、点在していた加工場や市場をなるべくエリア内に集約させ、公共施設も集約的に配置、道路の整備も図る。
また、町民の防災意識を継続して持たせることも今後の課題となる。犠牲となってしまった人の多くは、海から2km離れた場所にいた人だ。また、高台に逃げたにも関わらず、予想を超える津波に飲み込まれてしまった人も多い。「まさかここまで」という慢心が、命取りになってしまうのだ。
女川中学校の生徒の取り組みは誌面で紹介したが、これから何百年、何千年と、この津波の恐ろしさを語り継いでいかなければならない。そのためのひとつの手段として、「震災遺構の保存」があげられている。子供たちは、ひとつでも残してほしいと意見を提出。町としては、未来を担う子供たちの想いを尊重したいと話す。
「リアリティの問題ですよね。実際に被災した建物を目の前で見るのと見ないのとでは、全然違う。でも、私たちが本当に残したいのは”モノ”じゃなくて、何を伝えたいか、という”想い”だと思うんです」
新しい駅を中心としたきれいな町づくりを目指す一方で、あの日を蘇らせる震災遺構は異質なモノであることは間違いない。しかし、「ここからどうやって街が立ち直っていったのか、そういうものも伝えていきたい」と、柳沼氏は思いを語った。
千年後の命を守るために=女川町立女川中学校
「女川いのちの石碑」全文
東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。
「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない!!」その願いで、「千年後の命を守る」ための対策案として、①非常時に助け合うため普段からの絆を強くする。②高台にまちを作り、避難路を整備する。③震災の記録を後世に残す。を合言葉に、私たちはこの石碑を建てました。
ここは津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。
もし、大きな地震が来たら。この石碑よりも上へ逃げてください。
逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください。
家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください。
今、女川町はどうなっていますか?
悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
2014年3月 女川中卒業生一同
【取材協力】
女川町復興推進課・柳沼利明さん
ママサポーターズ(代表・八木純子さん)https://ja-jp.facebook.com/mamasupporters
女川町立女川中学校(3学年主任・鈴木実先生、津波対策実委員会の皆さん)
●震災から11年、取材当時を振り返って
何度か足を運ばせてもらった女川町の取材の中で特に印象に残っているのは、女川中学校の生徒たち。
「写真を撮るよー!」と声をかけても笑うのを躊躇してしまうような、思慮深くて、大人びた子供たちでした。彼らは震災の年に中学に入学した「震災1期生」として、大きな傷を抱えながらも支え合い、自分たちにできることを考え、災害から未来の命を守ることを考え続けていました。それが、「女川いのちの石碑」です。今だから言えることですが、「大人になるまでの間に、町内21か所の津波到達地点すべてに設置する」という計画を聞いたとき、これから高校、大学、就職と、別々の道を歩んでいくであろう彼らにそんなことができるのだろうか……と半ば半信半疑の思いがありました。
どんなに辛く、悲しいことがあっても、時は休むことなく流れていきます。
震災を知らない子供たちも増え、「いかに風化させずに震災の記憶を後世に伝えていくか」という論議も飛び交うようになりました。それほどまでにあの震災が、少しずつ遠くになってきてしまったのです。
震災から10年目となった昨年、嬉しいニュースを目にしました。
女川中学校の生徒たちが企画し、寄付を募り、卒業後も地道に活動を続けてきた「女川いのちの石碑」が、ついに最後の1基の設置を終えたのです。8年に渡って活動を続けてきた彼らも今は23歳。すっかり大人になった彼らは、久しぶりに仲間と顔を合わせ、照れ臭そうに記念撮影に応じていました。その笑顔は、あの頃は見ることができなかった迷いのない笑顔ーー無邪気な15歳の少年少女を彷彿させるものでした。
「夢だけは 壊せなかった 大震災」
最後の1基の石碑には、最初の1基に刻まれた文字と同じ言葉が刻まれました。
どうか彼らの想いが詰まったこの石碑が、未来の命を守りますように。
どうか彼らの「夢」が、この街から大きく羽ばたいていきますように。
そんなことを願わずにはいられません。