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Cars

最終更新日:2019.04.24 公開日:2019.04.24

4月25日は尾崎豊の命日。彼の見た景色は、今も私たちの目の前に。

4月25日はミュージシャン尾崎豊の命日だ。彼がこの世を去ってから27年もの月日が流れたが、命日には多くの人々が彼を偲んで集まる場所がある。駆け抜けるように短い生涯を閉じた彼の軌跡と、今でも人々の心を掴んで離さない曲の魅力について、改めて紹介したい。

 尾崎豊が突然この世を去ったのは1992年4月25日のこと。今でもあの日の衝撃は忘れられない。当時、私は友人からの電話で彼の死を知ったと記憶している。まだインターネットも携帯電話もなかった当時。友人から告げられたこのニュースは、私にとってにわかに受け入れ難いものだった。だが、テレビのワイドショー番組やスポーツ新聞のトップで、彼の死が次々に報道され、それが現実であることを受け入れざるを得なかった。享年26歳。2019年は彼の没後27年目となる。

17歳での鮮烈デビューから10代のカリスマに。

 高校3年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎豊は、CBSソニーとビクターが主催したオーディションに応募。CBSソニーのオーディションに見事合格する。1983年にリリースしたデビューアルバムは、初回プレスが2000枚ほどだった。しかし、1985年にリリースした3rdシングル『卒業』の過激な歌詞がクチコミで話題に。この曲を含む2ndアルバム『回帰線』は、大手音楽チャートで1位を記録。尾崎豊の名は瞬く間に全国区となった。

 10代の尾崎豊は「社会や大人への抵抗」などをテーマにした曲を生み出し、マスメディアからは「10代のカリスマ」と呼ばれ社会現象となった。そして1985年、彼の10代最後の日には3rdアルバム『壊れた扉から』が発売される。こうして、彼が10代でリリースした3枚のアルバムは「10代3部作」と称され、同時期に行われていたツアーは超満員。彼の人気は絶頂を迎えた。

20代の壁。試行錯誤と葛藤の日々。

 10代の代弁者として一世を風靡した尾崎豊だが、20代を迎えると方向性を見失い、突然の無期限活動休止を宣言。1986年に単身渡米するも、曲を生み出せないことに苦悩し、大きな収穫もないまま半年ほどで帰国。それまで彼を支えてきたプロデューサーやスタッフから離れ、レコード会社を移籍するなど試行錯誤を続けることになる。その間、ニューアルバムの制作も頓挫。新曲がないまま1年半ぶりにライヴツアーを行うも、肉体的な疲労で倒れツアーは中断。その年の暮れには覚せい剤取締法違反で逮捕されるなど、転がり落ちるように自らを追い詰めていった。

完全復活から、再び精神的な闇へ。

 その一方、私生活では一般人女性と結婚。長男が生まれたことで「生きること」に対する価値観を見出していく。1990年には古巣であるCBSソニーから、2枚組アルバム『誕生』をリリース。オリコン1位を記録した。翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。しかし個人事務所を立ち上げたことなどもあり、多忙な日々を送る中、再び精神的に追い詰められていく。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年末に母親が急死。彼の精神的状況はさらに悪化していった。

 1992年4月25日早朝、東京都足立区の民家の庭で泥酔状態で発見され、緊急搬送されるも午後0時6分に死亡が確認された。4月30日には、東京都文京区の護国寺で行われ、追悼式には3万7500人ものファンが詰めかけた。同年5月10日には、死の直前に完成させた6枚目のオリジナル・アルバム『放熱への証』が遺作としてリリースされた。

 破滅的な生き様や突然の死に関してもさまざまな憶測が飛び交い、いまだ謎に包まれた部分も多い。しかし、彼の残した数々の曲は、純粋なまま人々の心に確かに生き続けている。

尾崎豊の曲はなぜ人の心に突き刺さるのか。

 「15の夜」「I LOVE YOU」「卒業」など、多くの人が耳にしたであろう名曲の数々。これらの曲が多くの人たちに共感され、支持される理由のひとつに、歌詞のシンプルさがある。彼の代表曲に使われている言葉は、どれも実にシンプルだ。

 彼はあたりまえの言葉の伝え方が実に巧みだった。あたりまえの言葉をあたりまえに使うだけでは、チープな響きしか生まれない。しかし、彼は誰にでも響くあたりまえの言葉で、決してあたりまえではないメッセージを伝えることができたのだ。曲の中で歌われているシチュエーションは、葛藤する10代の耳から脳を直撃した。時に激しく、そして優しく。彼の曲で綴られる歌詞は、あたりまえの言葉だったからこそ、10代の青少年の心を突き刺すことができたのだ。

尾崎豊はカリスマだったのか?

 「カリスマ」という言葉は、軽々しく使うべきものではないと思うが、尾崎豊は間違いなくカリスマだったのではないだろうか。天性のルックス、作詞作曲の能力、そして彼にしかできなかった破滅的なステージパフォーマンス。彼のステージには、数々の伝説的エピソードがある。中でも、高校卒業を目前に中退を決意した彼が、日比谷野音で行ったライブでの出来事は衝撃的だった。ライブ中に高さ7mのステージセットから飛び降り左足を骨折。その後もステージに這いつくばりながら最後まで歌い切ったのだ。破天荒であることが美談だとは言わないが、自身のパフォーマンスでここまで精力を尽くせるアーティストはなかなかいるものではない。

 ジム・モリソン、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、彼らはみんな27歳で死んだ。そして尾崎豊は26歳でこの世を去った。天賦の才能を授かってしまった者は、長く生きることを許されないのだろうか。だが、彼の早すぎる死を惜しむ反面、こう思うこともある。もし尾崎豊がそのまま歳を重ねたとしても、果たして幸せな人生を送ることができただろうか。若くして「10代のカリスマ」というレッテルを貼られ、その荷を降ろすタイミングを見失ったまま生き続けることの辛さは想像に難くない。

尾崎豊の眺めた景色は今もここに。

クロスタワーのテラスから眺めた景色。街並みは変貌を遂げても、かつて彼がここに立ち、思いを馳せていたことに変わりはない。

 東京都渋谷区にあるクロスタワー。エントランス前のテラスは、尾崎豊が青山学院時代によく立ち寄った場所だ。ここには彼を偲ぶモニュメントが設置されており、今でも命日には多くのファンが集う。

今も命日になると多くのファンが集まるクロスタワーのテラス。ここに設置されたモニュメントにはデビュー曲『十七歳の地図』の歌詞と、彼の肖像を象ったレリーフが並んでいる。

 あと数日で元号が変わり、新しい時代となる。ここから見える景色も日々変わり続けることだろう。しかし、彼の残した曲は変わることなく輝き続け、彼を慕う人々はこれからもこの場所に集い続ける。

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