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最終更新日:2025.01.22 公開日:2025.01.27

中央道「幻の南回りルート」とは? 決定後に経路を変更した理由。【いま気になる道路計画】

首都圏と名古屋を結ぶ重要な高速道路のひとつ「中央自動車道」。現在のルートは甲府や諏訪を経由する北回りルートだが、当初は南アルプスを横断する「南回りルート」を予定していたことはあまり知られていない。なぜルートは変更されたのか?

文=KURU KURA編集部

資料=NEXCO中日本・身延町

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幻の中央道「南回りルート」

南アルプス付近の中央道のイメージ。画像は編集部が作成。 (c) CS.2 inc./Yoshimaki – stock.adobe.com

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首都圏と中京圏をつなぐ「中央自動車道」は、1982年(昭和57年)の全線開通以来、東西の都市圏を結ぶ経済の大動脈として、さまざまな恩恵をもたらしてきた。

東京都杉並区の高井戸ICから愛知県小牧市の小牧JCT、および山梨県富士吉田市の富士吉田ICまでを結ぶ現在の中央道。地図に起こすと、山梨県この甲府南ICから長野県の飯田ICにかけて大きく北に迂回しているのがわかる。

中央道は山梨県から長野県にかけて大きく北に迂回するルートになっている。 画像は資料を元に編集部が作成。

しかし、当初の計画では、山梨県の大月JCTから富士吉田ICを経て飯田IC付近までを直線的につなぐ計画だった。

中央道の当初の計画では山梨県、静岡県、長野県を直線的に横断するルートだった。 画像は編集部が資料を元に作成。

この「南回りルート」は、1957年(昭和32年)に「国土開発縦貫自動車建設法」に先行法定され、法律でも定められたものになった。そして、1962年(昭和37年)に東京(高井戸)~富士吉田(河口湖)に施工命令が出され、東名高速道路(東京~小牧)とほぼ同時に着工した。

ところが、翌1963年(昭和38年)の「中央自動車道推進委員会」で状況が一変。急遽「北回りルート」に変更することが決定したのだ。いったいなぜ計画は覆されたのだろうか。

中央道が「南回りルート」だったなら?

中央道の南回りルート(当初案)と北回りルート(現在)を比較。 画像は編集部が資料を元に作成。

その理由は、中央道の「南回りルート」が、身延~井川~木沢間に立ちはだかる南アルプス(赤石山脈)に長大トンネルをいくつも建設する、技術的な難易度の高い工事計画であったからだ。そのため、長期の工事と多額の工費という問題が噴出。中央道の早期開通を実現し、かつ開通後の費用対効果を得るためには、工期と工費を抑える「北回りルート」の変更が妥当と判断されたのだった。

「北回りルート」では、長大トンネルの建設も少なく南アルプスと比較すれば地形も穏やかなことから、工事規模の大幅な縮小を見込めた。また、山梨県と長野県の中央部を通り抜け、甲府をはじめとした市街地を経由するため、開通後の経済効果が高いことも計画変更の後押しになったとみられる。

その結果、計画変更の段階で東京(高井戸)~富士吉田(河口湖)の建設を進めていたことから、現在の大月JCTで本線と分岐する「富士吉田線(大月~河口湖)」が誕生。沿線には相模湖や河口湖など観光地が点在しており、観光客のアクセスルートとしての役割を果たしている。

もし中央道を「南回りルート」でつくっていたら、1982年(昭和57年)に全線開通はできていなかっただろう。

開通当時の相模原市付近の様子。

余談となるが、中央道の全線開通と前後して計画が持ち上がったリニア中央新幹線の計画でも、「伊那谷ルート(中央道の北回りルートに近い)」と「南アルプスルート(中央道の南回りルートに近い)」を検討し、最短経路で速達性やコスト面に優れる「南アルプスルート」に決定している。

中央道「南回りルート」の計画が潰えて半世紀以上が過ぎたいま、再び南アルプスにトンネルを通す計画が決定したのは感慨深い。

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