『イタリア発 大矢アキオ ロレンツォの今日もクルマでアンディアーモ!』第54回 日本車好きなフランスの若者たちに注目!━━伝説のサーキット100年祭【Movie】
なぜ日本の旧車がフランスの若者たちの間で人気に? イタリア・シエナ在住のコラムニスト、大矢アキオ ロレンツォの連載コラム第54回は、パリで開催されたサーキットイベントに愛車で参加したシティボーイたちに注目!
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クルマ好きパリ人に最も愛されてきたコース
リナ=モンレリーというサーキット名は、今日のF1レースを追うファンには聞き慣れない名前だろう。しかしパリのクルマ好きの間では、最も身近なコースである。
理由の第一は立地だ。パリ中心部からわずか25キロメートルしか離れていない。そのため、年間を通じてさまざまなイベントが開催されている。第二は開設当初から存在するスリリングな52°のバンクだ。
そして第三は輝かしい歴史である。施設は航空機用ラジエターで一財を築いた発明家のアレクサンドル・ランブランによって1924年10月にオープン。サーキットとしては、英国ブルックランズ、米国インディアナポリス、イタリアのモンツァに次ぐ古いものである。
開設翌年の1925年から1937年にかけては、現在のF1の前身であるグランプリ・レースも複数回開催された。加えて、初期の自動車産業にとって重要な挑戦であった速度記録の舞台にもなった。1925年から1939年の間、実に86%の世界記録がこの地で達成されている。
サーキットは1939年に国の管理下となったあと、戦後は産業試験研究所であるUTAC(ユータック)がそれを引き継いだ。実際、今日でも性能・技術試験などがこの施設の主な用途だ 。
傍らで耐久レース「パリ1000km」の舞台としても用いられた。また、1966年の名作フランス映画『男と女』では、ジャン=ルイ・トランティニアン扮する主人公のテストドライバーが「フォードGT40」を試験する場面で用いられている。
44年前のRX-7も
そのサーキットの開設100年祭が2024年10月12日と13日に開催された。一般ファン向けに走行会が企画され、参加可能車種リストにしたがって約200台が参集。そこにクラブ参加車約250台が加わった。
カテゴリーは8つ設けられた。最も古い「戦前車」の部には、サーキットの誕生年である1924年製の車両3台を含め30台が参加。いっぽうでヤングタイマーの部にも、1979年ルノー5アルピーヌから2003年ポルシェ996カレラ4Sまで32台が名を連ねた。
興味深かったのは、いくつかの日本ブランド車も参加が許され、コーナーが設けられていたことである。3代目トヨタ・スープラ、3代目ホンダCR-X、とさまざまなモデルが次々とやってきた。
そうした日本車のオーナーは、比較的年齢層が若いのが印象的だった。3代目日産スカイラインGT-Rのオーナー、アレクサンドルさんは29歳。ゲームで同車に憧れて「倹約生活の末、手に入れました」と静かながら熱く語ってくれた。
かつて日本にあった右ハンドル車で、センターコンソールの助手席側にはETC車載器まで残されている。「できることなら、いつか日本の元オーナーと、このクルマについて語り合いたいですね」と夢はふくらむ。
台数的に最も多かったのは、マツダMX-5(日本名ロードスター)である。とくに人気があるのは初代で、「リトラクタブルライトに惹かれて」というファンが複数いた。冒頭写真のジェレミーさんはフィアット500を売り払い、代わりにわずか2週間前にMX-5を手に入れて今回の走行会に臨んだ。
マツダといえば、なんと初代RX-7もやって来ていた。それも1980年の前期型である。ホイールも懐かしい純正だ。オーナーのギヨーム・ペリエさんは24歳。航空宇宙関連企業エンジニアである。
自分の生年より四十数年上のRX-7を手に入れた理由は、「ロータリーエンジンに対するメカニズム的興味から」であったという。車格やコンディションなど、既成概念にとらわれないクルマ選びが、なんとも痛快である。
その若い彼に、MX-5のジェレミーさん同様、以前乗っていたクルマを尋ねたら……答えは動画をご覧いただこう。