目覚めよ! タイムカプセルから出てきたクルマたち──コンコルソ・ヴィラ・デステ2024<中編>
“アンチ・フェラーリ”で誕生したブランドは、ランボルギーニだけにあらず。世界最古の自動車コンクール「コンコルソ・ヴィラ・デステ」に登場した、幻のブランド「アウトモービリ・セレニッシマ」とは。イタリア・シエナ在住の人気コラムニスト、大矢アキオ ロレンツォが現地からリポートをお届けする。
77年仕舞われていたクルマも
2024年5月24日から26日までイタリア北部コモ湖畔のチェルノッビオで開催された自動車エレガンス・コンクール「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ」。このイベントについては、別ページで伝えたとおりである。2024年は51台のヒストリックカーが8クラスに分けられて審査を受けた。
各クラスは毎年異なった興味深いテーマが設定される。「タイムカプセルズ:外の世界が忘れたクルマ」とは、2024年に設けられたクラスのひとつだ。何らかの理由で、長い間日の目をみなかったクルマたちの特集である。エントラントは計7台。各車にさまざまなヒストリーが込められていた。
1928年「ブガッティ・タイプ35C」は、当時スピードレースに参加したときのコンディションを今に伝える、きわめて希少な車両として参加。選外佳作賞を獲得した。
1932年「アルファ・ロメオ8C2300」の歴史も面白い。海軍士官学校生だったオーナーが1937年に21歳の誕生日プレゼントとして父親から贈られた。しかし第二次大戦でアジア方面の任務についたため、77年間にわたり彼によってフランスに秘蔵されていたという。こちらは13名の審査員が選ぶベスト・オブ・ショーに輝いた。
「メルセデス・ベンツ300SL」というと、1858台が造られたことから、欧州のヒストリックカー・イベントでは見慣れた存在である。だが今回エントリーした1960年式ロードスターは、2代目オーナーが2012年まで50年にわたり新車状態を可能な限り維持。走行距離はたった25,258マイル(4万キロメートル)で、タイヤも納車時のものだ。
1967年「フィアット・ディーノ・アエロディナミカ」も特異な経歴だった。ベース車はフェラーリがFIA(国際自動車連盟)のF2レース出場条件に定められた台数を達成すべく、量産車メーカーであるフィアットの協力を得て生産したスポーツカーだった。
今回の参加車はそれをベースに、自動車デザイン会社のピニンファリーナが1967年パリ・モーターショーに展示するため製作。当初の塗装は白で、“ブレッドバン(パン屋さんのバン)”と呼ばれる切り立った後部を備えていた。
だが翌1968年のジュネーブ・モーターショーに出展する際、前部とともに後部も修正され、車体色もロッソ・ディーノといわれる赤に塗り替えられた。その後長年にわたりピニンファリーナ社に仕舞われていたが現在はニューヨークのオーナーのもとにあり、今回は「最も保存状態の良い戦後車」賞に輝いた。
ランボルギーニだけにあらず。もう1台の「アンチ・フェラーリ」
入選はしなかったものの、筆者が最も興味深い歴史をもった1台を「タイムカプセル」の中から選ばせてもらえるなら、間違いなく「セレニッシマ・アジェーナ」だ。
主人公はイタリア・ヴェネツィアのジョヴァンニ・ヴォルピ・ディ・ミスラータ伯爵(以下ヴォルピ伯爵)である。ちなみにイタリアでは今日でも、伯爵、侯爵といった称号で呼ばれる人たちが各地に存在する。公務員の役職に使用を禁止する法律こそあるが、第二次世界大戦後に制定された共和国憲法に、それを否定する文言がないことが背景にある。
ヴォルピ伯爵は9歳のとき、ヴェネツィア映画祭の創設者でもあった父親ジュゼッペ・ヴォルピ伯爵(1877-1947)を失った。その莫大な遺産をもとに1958年、20歳の年にプライベートのレーシングチーム「スクデリア・セレニッシマ」を結成。当初はアバルト、フェラーリ、マセラティ、そしてポルシェの車両を使用した。やがて1960年には「マセラティ・バードケージ」の開発に資金提供を決め、「フェラーリ250GTO」計画にも同様に資金面で参画した。
しかし、フェラーリとの関係は破綻する。その創立者エンツォ・フェラーリに反旗を翻したエンジニアたちによって1962年に興された新ブランド「ATS(アウトモービリ・トゥリズモ・エ・スポルト」社にヴォルピ伯爵が資本参加したのがきっかけだった。“アンチ・フェラーリ”で誕生したブランドといえば、ランボルギーニがあまりにも有名だが、実はヴォルピ伯爵のクルマづくりもフェラーリとの事件がきっかけのひとつだったのである。ちなみに伯爵は当時24歳。対してエンツォ・フェラーリは1898年生まれだから、64歳だったことになる。
伯爵の計画は続いた。翌1963年、自身のスポーツカーを生産する目的でボローニャに新たなブランド「アウトモービリ・セレニッシマ」を立ち上げる。当初の工場は地元ロールス・ロイス輸入業者の敷地内だったが、1966年にはモデナ近郊の専用工房に移転。ただし商業的成功は得られず、1970年までに4モデルを開発・生産したあとシャッターを閉じた。
今回ヴィラ・デステに参加したセレニッシマ「アジェーナ」は1967年に開発されたプロトタイプである。ただしミドシップされたV8エンジンは米国製のOEMなどではなく、オリジナルだった。正式に登録されたことは一度もなく、公道走行時は常にProva、すなわち仮ナンバーだったという。2020年、ヴォルピ伯爵がアジェーナを現在の所有者に売却するまで、このクルマは外の世界からほとんど忘れられていたのである。
もちろん、この物語には伯爵個人の資金力があったことは紛れもない事実だ。しかし、理想のクルマを造りたい思いがあれば、大企業でなくても実現できた時代が僅か半世紀前まであったことを、この白いGTは静かに物語っている。これからも同様に、タイムカプセルから出てきたようなクルマたちが、私たちの知的好奇心をくすぐってほしいものだ。
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