クラウン、フェアレディ、グロリア、ジムニーなど!1970年代前編【トヨタ博物館 クラシックカー・フェス 2018】(5)
ヘリテージを尊び、人とクルマの未来を見据え、日本の自動車文化を育んでいくことを目的としたクラシックカーと旧車の祭典「トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑 2018」。その写真が残っていたことから、公表しよう。レポートは次回1970年代編後半の第6弾で最後だ。
今回は1970年代国産車前編として、トヨタ「トヨペット クラウン スーパーデラックス」(3代目)&「クラウン」(4代目)、日産「ダットサン フェアレディ2000」&「スカイライン 2000GT」&「プリンス グロリア スーパーデラックス」、スバル「ff-1 1300G」、スズキ「ジムニー」の7車種を取り上げる。クルマの年代は発売年ではなく、年式で整理した。
【2018年のリポート一覧・すべて動画あり!】
走行動画:トヨタ「トヨペット クラウン」(3代目)~スズキ「ジムニー」
トヨタのフラッグシップ3代目「トヨペット クラウン スーパーデラックス」
トヨタのフラッグシップ・セダン「クラウン」。1955年1月に初代「RS系」が登場し、1962年10月に2代目「RS40系」が、そして1967年9月にこの3代目「MS50系」が登場した。
3代目の特徴は、エクステリアに欧州車や米国車をマネるのではなく、日本独自の美しさを追求したところがひとつ。また、初代と2代目は公用車や社用車として使われることが多かったが、「白いクラウン」というキャンペーンを行い、オーナードライバーにアピール。そのキャンペーンは成功し、この3代目から個人所有の「クラウン」が増えていった。3代目は「クラウン」歴代史上で生産期間が3年5か月という最短命のモデルながら、トヨタ博物館の調査によれば生産台数が約34万2000台というヒットを記録したという。
ちなみに、車名の前にある「トヨペット」は、ディーラーを表すものではない。一般公募によって決定したマスコットネーム(ブランド名の1種)で、1947年の「SA型小型乗用車」以降の小型車・普通車はどれもつけていたのである。それが後にディーラー名に採用されたという経緯がある。
3代目「クラウン」は1971年2月に4代目「MS60系」にバトンタッチ。4代目は当記事の2ページ目にて紹介した。
“Z”のつかない貴婦人の最終モデル「ダットサン フェアレディ 2000」
日産が1952年1月に発表し、約20台が販売されたという「DC-3型ダットサンスポーツ」は国産初のスポーツカーとされる。そして、1957年11月に登場したのが、その2代目である「S211型」だった。DC-3型のスタイリングはクラシカルだったが、S211型は2シーターのオープンカーという、近代的かつ英国ライトウェイトスポーツスタイルに大きく変更。そして1960年1月に北米への輸出を開始し、このときにつけられたのが「ダットサン フェアレディ」の名だった(「ダットサン フェアレディ」の名は国内でも使われるようになるが、1960年時点で「ダットサン フェアレデー」と表記された)。
1962年10月に2代目として、「SP310型ダットサン フェアレディ 1500」が発売開始。1965年にはエンジンを1.6Lに換装した「SP311型ダットサン フェアレディ 1600」が、さらにその2年後に「SR311型ダットサン フェアレディ 2000」が登場した。
「ダットサン フェアレディ」はこの「2000」を最終モデルとし、この後、1969年にサブネーム”Z”を末尾につけた「ダットサン フェアレディZ」(※1)へとバトンタッチすることになる。そして「フェアレディZ」は、現行車種として6代目の「Z34型」が発売中だ。
スバル「1000」の系譜の最終モデル「ff-1 1300G」
1958年3月に発売した軽自動車「360」シリーズ(※2)によって、戦後の日本のモータリゼーションを大いに加速させたスバル。その後、普通車・小型車の製造もスタートさせ、1966年10月には国産初のFF乗用車として知られる「1000」を発売する。「1000」は、現在に続くスバル車の特徴のひとつである水平対向エンジン(及びそれに伴うシンメトリカル構造)を同社で初めて搭載したことが特徴である。
そして、「1000」を踏襲する形で1969年3月に登場したのが、まさにフロントエンジンフロントドライブをそのまま車名にした「ff-1」だ(大文字「FF-1」と表記される場合もある)。さらに「ff-1」のエンジンを1Lから1.3Lにアップさせたのが「ff-1 1300G」である。1970年7月に登場した。
「ff-1 1300G」には試作で終わったが、全輪駆動(AWD)車の「ff-1 1300G 4WD」が存在した。開発は1971年10月のことで、同車こそが現在まで続くスバル車の特徴である水平対向エンジンとAWDの組み合わせ実現した初の車種だったのである。ただし、市販車としてその組み合わせを実現した元祖とされるのは、「レオーネ 4WD エステートバン」だ。
ちなみに「ff-1 1300G」の生産期間は短く、「ff-1 1300G 4WD」が開発されたのと同じ1971年10月には1970~80年代のスバルの主力車種となる「レオーネ」にバトンタッチ。「1000」の直接的な系譜は終了することとなった。
→ 次ページ:
次は4代目「クラウン」や初代「ジムニー」など!
意欲的な”スピンドルシェイプ”を採用した4代目「クラウン」
「トヨペット」のマスコットネームが外れた4代目「MS60系クラウン」は、1971年2月に登場。フレームやエンジンなどの機構面が3代目から継承され、さらにオーナードライバーへの積極的なPRも3代目から引き続き行われた。それは”スピンドルシェイプ(紡錘型)”と呼ばれる特徴的なスタイリングで表された。それ以降のスタイリングをリードするものとして、トヨタが自信を持って送り出したのであった。
しかしそのデザインは先進的かつ個性的過ぎるとして、当時のオーナー層に受け入れられないという事態に。より保守的な公用車・社用車などの法人需要からも敬遠されてしまった結果、1955年登場の初代から守り続けてきたクラス首位の座から陥落してしまったのである。
それに対してトヨタは素早く対応し、1973年10月にマイナーチェンジを実施。スタイリングの手直しを図り、フェイスリフトが行われた。ただしそれは場つなぎだったようで、ちょうどその1年後にはオーソドックスなスタイリングに戻した5代目「MS80系」がデビューしたのであった。
初代「GT-R」! 「KPGC10型スカイライン 2ドアハードトップ」
かつて存在したプリンス自動車は1966年8月、実質的には吸収される形で日産と合併したものの、プリンスで開発されたクルマの多くが引き継がれた。「スカイライン」もそのひとつで、1968年7月に登場した3代目「C10型」が日産から発売された最初の「スカイライン」だ。
プリンス時代から「スカイライン」はレースで活躍していたが(※3)、1969年2月に登場したのが、4ドアセダンの「PGC10型2000GT-R」だ。
初代「GT-R」はレースでの使用を前提とした高性能スポーツカー。エンジンに至っては、打倒ポルシェを目指して開発されたプロトタイプレーシングカー「R380」のエンジンを市販用にデチューンした2L直列6気筒エンジン「S20型」が搭載されていたほどだ。S20型は、量産車としては世界初となる4バルブDOHC機構を搭載されていたのである。
そして1970年秋になって、旋回性能の向上と軽量化を実現すべく、ホイールベースを70mm短縮した2ドアハードトップモデル「KPGC10型GT-R」(※4)が追加。狙い通りに初代「GT-R」はレースで大活躍し、PGC10型とKPGC10型と合わせて1972年10月に49連勝を含めた通算52勝という大記録を打ち立てたのであった。
市販の「スカイライン」はその大記録の1か月前にフルモデルチェンジが行われ、4代目「C110型」(※4)がデビューしている。
縦型4灯式ヘッドランプが特徴的な3代目「グロリア スーパーデラックス」
「グロリア」も日産に引き継がれたプリンス車の1車種。そのため、3代目までは「プリンス グロリア」とも呼ばれる。同車は初代「BLSI型」が1959年に登場。初代「ALSI型スカイライン」とはボディを共用した兄弟車だった(※5)。
1962年9月に2代目「S40型」が登場し、翌1963年には排気量2Lクラスでは国産初となる直列6気筒SOHCエンジン「G7型」を搭載した最上位グレード「スーパー6」が追加。G7型は最高出力105馬力をマークし、国産車として初めて100馬力の大台に乗った、歴史に名を残すエンジンである。
1967年4月に登場した3代目「A30型グロリア」はプリンスと合併した日産から発売された最初の車種となったため、世間から大いに注目を集めることとなった。3代目「グロリア」は当初G7型エンジンを搭載していたが、1969年10月のマイナーチェンジで日産製「L20型」エンジンに換装。今回参加した「グロリア スーパーデラックス」は1971年式のため、L20型を搭載している。
「グロリア」は1971年2月に登場した4代目の「230型」から、日産が1960年に初代をデビューさせた高級セダン「セドリック」の3代目と兄弟車となり、ワンセットで「セド・グロ」と呼ばれるようになる。
初代の水冷エンジンに換装したマイナーチェンジモデル・LJ20型「ジムニー」
”自然に挑戦する男のくるま”、”男の相棒”というキャッチフレーズと共に、スズキが1970年に発表した初代「LJ10型ジムニー」。初代は、ラダーフレーム、前後のリーフリジットサスペンション、大径16インチタイヤ、高低の2段副変速機などを備えた、山間部のダム建設現場や林業などのプロの道具として、そして手軽なアウトドアの足として人気を博した。
エンジンは、軽トラック「キャリイ」のものを改良した排気量359ccの空冷直列2気筒2サイクルの「FB型」。当時の軽自動車規格で登場した、国内初の軽4WD車だったのである。軽四輪として「ジムニー」の登坂能力は群を抜いており、一般の軽四輪が勾配15~17度というところ、車重600kgという軽量である点も手伝って、27.5度を誇った。
そして1972年にマイナーチェンジが行われ、今回撮影した「LJ20型」に。最大の変更点はエンジンが水冷式の「L50型」となったことで、それに伴い最高出力は3馬力アップの28馬力に、最大トルクは0.4kg-mアップの3.8kg-mとなった。車重は25kg増えたが、トルクのアップなどによってさらに登坂能力は高まり、35度に。同時期に発売されていた他社製の4WD車はどれも大排気量(2199~3956cc)で、それらの登坂能力は勾配35~45.20度。軽規格とはいえ、まったく引けを取らなかったのである。
この後、1976年に軽自動車規格の改定に合わせてマイナーチェンジが行われ、539cc・直列3気筒エンジン「LJ50型」を搭載した「SJ10型」が登場。通称「ジムニー55」と呼ばれた。2代目へのフルモデルチェンジは1981年に実施され、「SJ30型」(エンジンはLJ50型のまま)に切り替わった。