一切他のマネをせず。スバル360
「スバル360」 1958〜1970年 全長×全幅×全高:2990×1300×1310mm 軸距:1800mm トレッドF/R:1140/1030mm 車両重量:385kg エンジン:2サイクル強制空冷単2気筒61.5×60.0=356cc 圧縮比:6.5 出力:16hp/4500rpm トルク:3.0kgm/3000rpm 最高速:83km/h 変速機:3段MT サスペンション:F・トレーリングアーム/ R・スウィングアクスル+トーションバー ブレーキ:FRともドラム タイヤ:4.50-10 価格:425,000円 延生産台数:392,016台
国民に愛されたスバル360
全長が3mに満たない愛くるしいこのクルマは、家族4人を乗せ、10インチのちっぽけなタイヤをグルグル回し、元気よく日本を走り回っていた。その姿は幸せな家族の象徴のようでもあった。(関連記事)
今の軽と比較すると、全長は40㎝、全幅で18㎝も小さく、車重はわずか3分の1しかない。それでも小さく感じさせない素晴らしさがある。
後ろに積んだ360㏄の空冷2サイクルエンジンは、わずか16馬力だが、走りは排気音と同様に軽快だった。車重が競合車の540㎏に対して385㎏しかなかったからだ。それはタマゴの殻のように薄い鉄板(0.6t)のモノコックだったからで、巷では「さすが飛行機屋のクルマだ」と高く評価されていた。もちろん今の軽が重いのは普通車と同じ衝突安全基準をクリアしているからだが。
乗り心地も秀逸で、深い轍のある道でもスウィングアクスルとトーションバーの組み合わせはしなやかだった。ところがこのサスペンションが災いして、コーナーでちょっと無理をすると、もんどり打って転倒することもあった。運転者は、グラスファイバーの天井を外し、そこから這い出してクルマを起こし、何ごともなかったかのようにまた走る。だからと言って目くじらを立てて、ディーラーに文句を言うわけでもなかった。
開発初期には「FFにすべき」という意見もあり、かなり議論したようだが、まだ等速ジョイントの技術が確立されておらずRRに決定。また、シトロエン2CVやフィアット600、ロイトなどを勉強こそしたが、他車のマネは一切しなかったという。
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デザインの手法も実にユニークだった
スケッチを描かないデザイン手法だったスバル360
デザイン担当の佐々木達三氏も一切の先入観を持たず、他車を見ずして自らが運転。その実感からデザインを進めた。スケッチは描かず5分の1の木型に粘土を盛り、次に実寸大まで拡大した。このスケッチを描かないやり方は、ガンディーニと同様である。デザインテーマは「飽きがこない、無駄がない、ユニーク」。それは今もクルマから伝わってくる。この一切、他車のマネをせずというのが、いかにもスバルらしい。
富士重工業の前身は、軍用機製造の中島飛行機。戦前は25万人もの従業員を抱える大企業だった。中島飛行機は海軍技術将校の中島知久平が設立し、ゼロ戦のエンジン栄や戦闘機の隼、疾風などを生産した。ところが敗戦と同時にGHQより解体を命ぜられ12社に分割。その中の5社が再結集し、53年に誕生したのが富士重工業である。その経営を支えたのは、スクーターのラビットだった。
戦後、技術の頂点を極めた軍用機の開発者たちは、トヨタ、ニッサン、マツダに散り、日本の自動車技術を一気に世界レベルへと押し上げた。無論、その裏には彼らに続く多くの技術屋がいたことは言うまでもない。日本の自動車技術が短期間に成長したのは、このような背景があったからだ。
ところでスバル360の価格は、当時(58年)、給料が良いと言われた公務員の初任年俸に相当する42万5000円もした。やはり庶民には高嶺の花で、発売時の販売はわずか月に335台。それがうなぎ上りに上昇し、2年後には20倍の6000台、4年後には月に1万台も売れまくった。まさに日本のモータリーゼーションを発展させた立役者だ。その後も70年までの12年間販売され、うち10年にわたって軽自動車販売台数ナンバーワンを誇った。
ユニークなスバル360は、VWビートルの「かぶと虫」に対して「てんとう虫」のニックネームで親しまれ、国民的アイドルだったのだ。
文=立花啓毅
1942年生まれ。ブリヂストンサイクル工業を経て、68年東洋工業(現マツダ)入社。在籍時は初代FFファミリアや初代FFカペラ、2代目RXー7やユーノス・ロードスターといった幾多の名車を開発。
(この記事はJAFMateNeo2014年1・2月号掲載「哲学車」を再構成したものです。記事内容は公開当時のものです)