2018年05月16日 15:00 掲載
写真ビストロ SNAP×SNAP 「ダットサン」に「ブル1600SS」、「240Z」、「バイオレット」、「シルビア」…!! 1950~80年代の日産のラリーカーを集めてみた!
日産のモータースポーツ活動というと、サーキットのイメージが強いのではないだろうか。実際、60年代末から70年代前半にかけての「スカイライン2000GT-R」(初代「GT-R」)による伝説の49連勝に始まり、90年代の全日本ツーリングカー選手権でのR32型「スカイラインGT-R」の29連勝、そして近年のR35型「GT-R」のスーパーGTなどでの活躍を思い浮かべる人は多いはずだ。
しかし、かつてはラリーでも世界にその名を轟かせた歴史も持つ。ここでは、1950年代から1980年代まで、日産のラリーカーを取り上げてみる。
豪州一周ラリーで活躍!「ダットサン 富士号&桜号」(1958年)
210型「ダットサン 1000セダン 富士号」(1958年豪州ラリー・Aクラス優勝・総合25位)。全長3860×全幅1466×全高1535mm、ホイールベース2220mm、トレッド前1170・後1180。車重925kg。排気量988cc・直列4気筒OHVエンジン「C」型、最高出力34ps(25kW)/4400rpm、最大トルク6.6kg-m(65N・m)/2400rpm。サスペンションは前後共に平行リーフリジット。ブレーキは前後共ドラム。タイヤは前後共5.00-15-4PR。10年前のNISMOフェスティバル2008(富士スピードウェイ)にて撮影。外見のダメージをあえて残したままにレストアが施された。
日産の国際的なモータースポーツへの挑戦は、1958(昭和33)年8月20日から9月7日まで開催された、オーストラリアを舞台に約1万6600kmを走り抜ける「モービルガス・トライアル」(通称:豪州一周ラリー)から始まった。
1957(昭和32)年11月に発売した、210型「ダットサン1000セダン」の特徴のひとつが、日産初となるOHV動弁機構を採用した排気量988cc・直列4気筒の新型エンジン「C」型を搭載したこと。また海外への輸出を想定しており、フロントウィンドウに高速走行を考慮した曲面ガラスを採用したことも特徴だった。それらの耐久性をテストするため、世界一苛酷なラリーを選んだのである。
日産は同ラリーの1000cc以下の排気量の「Aクラス」に、「ダットサン 1000セダン」をベースとした、「富士号」と「桜号」の2台のラリーカーを投入。富士号はクラス優勝を果たし、総合で完走34台中25位、桜号はクラス4位となった。日産はこの結果により、自社のクルマの優秀さを世界に発信することに成功したのである。
こちらは「ダットサン 1000セダン 桜号」。あまりにも長丁場のラリーのため、富士号、桜号共に、ドライバーは2名体制で、さらにナビゲーターが加わっていた。富士号のドライバーは、後に日産のモータースポーツ部門であるNISMOの初代社長となる難波靖治(なんば・やすはる)氏がメインで、サブが奥山一明(おくやま・かずあき)氏、ナビゲーターがブルース・ウィルキンソン氏というトリオ。上の画像で、ドライブしているのが難波氏で、手を振っているのがウィルキンソン氏。桜号のドライバーは、メインが大家義胤(おおや・よしたね)氏で、サブが三縄米吉(みなわ・よねきち)氏、ナビゲーターがアラン・ギボンス氏のトリオ。なお、チーム監督は後に「フェアレディZ」の生みの親として知られるようになる片山豊氏が担当した。
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「ブルSSS」はサファリでも速かった!
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