「スバル360」や「サニー」など、日本自動車史に名を残すクルマが集合!【第8回クラシックカー・スポーツカー in 科学館】旧車50~60年代編
千葉県立現代産業科学館(市川市)にて3月10日に開催された、「第8回クラシックカー・スポーツカー in 科学館」。1950年代から2000年代までのヒストリックカーや旧車、スーパーカーなど、50台ほどが集結した。レポート第2弾は、1950~60年代の旧車を紹介する。
紹介するのは、新三菱重工「ウィリス・ジープ」、いすゞ「ベレット1600GT」、スバル「360デラックス(52型)」、日産「ダットサンフェアレディ2000」(2代目)、日産「ダットサンサニー1000クーペ」(初代)の5車種。掲載順はそのクルマの誕生年ではなく、展示車両の年式順とした。
新三菱重工業がノックダウン生産から始めた「ウィリス・ジープ」1958年式
米ウィリスオーバーランド社の「ジープ」といえば、ミリタリー用途のタフな4WDオフローダーの元祖として知られ、このカテゴリーの代名詞的存在となっている。そんな「ジープ」を、かつて三菱自動車の前身である新三菱重工がノックダウン生産をしていたのをご存じだろうか。
戦闘機の生産などで旧日本軍を支えた三菱重工は戦後、GHQの政策により1950年になって三分割されてしまう。その1社である中日本重工業は間もなく新三菱重工と社名を変更。そして、1952年にノックダウン方式で「ジープ」を生産する契約をウィリス社と締結し、1953年から生産を開始した。
その後、ウィリス社と新たな契約を結んで「ジープ」の国産化が進められ、1955年からは100%日本製部品で生産されるようになる。上写真のJ3型1958年式もその時期のもので、左ハンドル仕様なので本家ウィリス製と互換性を維持しつつも、純日本製だ。
しかし1961年になると通商産業省(現・経済産業省)が左ハンドルを禁止とし、右ハンドル車として設計変更を余儀なくされる。その結果、ウィリス製とは互換性がなくなり、現在ではより以前の年式である左ハンドル車の方が米国から部品を調達しやすく、右ハンドル車よりも維持しやすいという逆転現象が起きているという。
三菱製「ジープ」はその後、1998年まで生産され、2001年まで販売された。
日本初のグランド・ツーリングカー! いすゞ「ベレット1600GT」1966年式
現在では大型商用車メーカーとして知られるいすゞだが、かつては国内でも乗用車を手がけていた。「ベレット」は、「ヒルマン・ミンクス」(1953年)、「ベレル」(1961年)に続く、いすゞの乗用車の第3弾として1963年6月に発売された。そして1964年4月、モータースポーツで培われた技術をフィードバックして発売したのが、日本初の本格GT(グランド・ツーリング)カーとされる上写真の「ベレット1600GT」だ。
上写真の「ベレット1600GT」は1966年式だが、ちょうどこの年の9月には、現在でいうビッグマイナーチェンジモデルが登場した。エクステリアの目立った変更はないが、各種機構や内装などは徹底的な改良が施され、もはや別物といっていい乗り心地を獲得したという。マイナーチェンジ前と後では外見では判断をつけにくいのだが、数少ない相違点がフォグランプのサイズ。そこから判断すると初期型のようだ。「ベレット」は1973年9月まで17万737台が生産され、そのうちの1万7439台が「ベレット1600GT」だった。
日本で最初に大ヒットした軽自動車スバル「360」の後期モデル「デラックス」1968年式
”テントウムシ”の愛称を持つスバル「360」は、1955年に通商産業省(現・経済産業省)が発表した、”4人乗り・最高速度時速100km・価格15万円”という「国民車構想」に触発されて開発がスタートしたクルマの1台だ。そして、「全長3m以下・全幅1.3m以下・全高2.0m以下・排気量360cc以下」という、当時の軽自動車規格を満たした農作業用以外の車両として、初めてヒットしたクルマとしても知られる。総生産台数は40万台弱を記録した。
上写真の千葉県立現代産業科学館が所蔵する「360」は、1962年に初めて登場した「デラックス」の1968年式。1960年代前半は、乗用車に豪華さが求められていた時代で、さまざまな車種にデラックスグレードが設定された。そうした要望に応えて「360」も従来のモデルが「スタンダード」となり、豪華仕様の「デラックス」が追加されたというわけだ。
「360」は1958年から1970年まで12年間にわたって生産され、一度もフルモデルチェンジをすることはなかった。しかし、実際のところ細かい部分を含めると多い年は複数回もの改良が加えられ、機構も内外装も何度も手が入った。同じ「デラックス」であっても、初登場時の1962年式とモデル末期の1968年式では実は大きく異なっており、スペックも異なる。同じ1968年式でも実は3種類あり、上写真の「360デラックス」は1968年8月から1969年3月まで生産された52型だ。
50年経っても淑女は淑女! 日産「ダットサンフェアレディ2000」(2代目)1968年式
上写真の「フェアレディ2000」は、日産が1952年に誕生させた国産初のスポーツカーを名乗ったDC-3型「ダットサンスポーツ」の系譜である。「ダットサンスポーツ」は1959年7月に2代目のS211型が発売となり、1960年1月に輸出仕様SPL212型が発表される。この輸出仕様につけられた車名が「フェアレデー」(最初は「フェアレディ」ではなかった)だった。
そして国内で初めて「フェアレディ」の名がついたモデルが発売されたのは、1962年のフルモデルチェンジで登場した2代目の、SP310型「フェアレディ1500」から。「ダットサンスポーツ」としては3代目となるSP310型は、1967年になって排気量を1982ccにアップしたモデルが追加された。それが「フェアレディ2000」である。
その後、「フェアレディ」は1969年11月にサブネーム”Z”をつけ、スタイリングもオープンからクローズドへと大きく変えて「フェアレディZ」(※1)として登場。現行Z34型(※2)は「フェアレディZ」として6代目であるのと同時に、「フェアレディ」としては8代目、「ダットサンスポーツ」としては9代目という歴史があるのだ。
マイカーブームを促進させた1台・日産「ダットサンサニー1000クーペ」(初代)1969年式
1966年4月に登場した日産「ダットサンサニー1000」は、同年11月に登場したトヨタ「カローラ」と共に、日本のモータリゼーションを加速させたことで知られるクルマだ。本格的なマイカー時代を到来させ、”大衆車”という新たなジャンルを確立した。「サニー」の車名は発売前に行われた公募で決定したのだが、約850万通もの応募があったという。当初は2ドアセダンから始まり、上写真は1968年になって追加されたクーペモデルだ。
「ダットサンサニー1000」が一般大衆からの人気を得た理由はいくつかあるが、手ごろな価格だったことが大きいだろう。ラーメン1杯が70円程度の時代に、スタンダードが41万円、デラックスでも46万円。大人2人と子ども2人が乗れる居住性を有しつつ、多くの人が手に届く価格だったことから、発売から5か月で販売累計台数が3万台を突破するというベストセラーとなったのである。
「サニークーペ」は「サニー」の4代目までラインナップ(6代目には「サニーRZ-1」というクーペモデルも存在した)。「サニー」は1998年10月登場の9代目B15型が国内では2004年で生産を終了した。
今回、貴重だったのは、新三菱重工製がノックダウン生産したウィリス社製「ジープ」だろう。戦後、欧米のメーカーに追いつくため、複数の国内メーカーがノックダウン生産で技術を吸収していったのである。ノックダウン生産を行ったメーカーは、三菱のほかにも、日産(英オースチンと提携)、いすゞ(英ルーツと提携)、日野(ルノーと提携)などがあった。
また60年代からは4車種を紹介した。「フェアレディ2000」以外は現行モデルは存在しないのだが、どれも当時は大人気を博し、日本の自動車史に名を残したクルマたちばかり。昭和世代の方々には懐かしんでいただくと同時に、平成世代の方々もぜひ歴史的なクルマたちに興味を持ってもらって、さらに次の世代へとこれら貴重なクルマのことを伝えていってほしい。