クルマのある暮らしをもっと豊かに、もっと楽しく

クルマ最終更新日:2017.01.12 公開日:2017.01.12

Bobby’s Girlが名付け親~ 『ボビーに首ったけ』とヤマハRD250

 外国から日本へ輸入された、主としてポピュラーな楽曲を総称して、かつては洋楽と呼んでいた。この洋楽という言葉は、いまでもかろうじて現役だと思う。『ボビーに首ったけ』という僕の書いた短編小説は、洋楽の日本におけるヒット・ソングの、日本語題名をそのまま借用したものだ。マーシー・ブレインという女性歌手が歌った、原題をBobby’s Girlという歌の、日本における題名が、『ボビーに首ったけ』だった。1963年3月の『今週のベストテン』というラジオ番組の、上位20曲のなかでこの歌は10位の位置にあった。首ったけ、という言いかたは、少なくとも僕にとっては、相当に古めかしい言いかたであり、そこが面白くて記憶に残っていた題名だ。
 それから10年以上あと、自分で書いた短編小説の題名に、僕はそれをそのまま使った。ストーリーを考えたあと、題名のつけようがなくて苦心していたとき、ふとこの題名を思い出し、そのまま使った。主人公の少年が、親しい友人たちから、ボビーと呼ばれていた、というひと言をつけ加えさえすれば、この題名がそのまま使えたからだ。ザ・バーズというグループの洋楽に、『君に首ったけ』という日本語題名のものがある。原題を直訳すると、「きみが好きになるだろうということはよくわかってたんだ」とでもなるだろうか。僕が知るかぎりでは、洋楽の日本語題名に、首ったけ、という言葉があるのは、この2曲だけだ。探せばもっとあるかもしれない。
 洋楽の日本語題名をそのまま短編小説の題名に借用した例は、僕の場合かなり多いのではないかと自分では思っているのだが、列挙してみようとすると、思い浮かばない。『夕陽に赤い帆』というハードボイルドな短編は、書いた当人であるこの僕が、たいそう気に入っている。『昨日は雨を聴いた』という短編があると思う。『雨の伝説』もある。どちらも洋楽の日本語題名だ。10CCというグループの『人生は野菜スープ』という題名は、二度も使った。まったくおなじ題名で、別なストーリーをもう一度、書いたからだ。『俺を起こしてさよならと言った』という題名の短編も、内容とともに僕は好いている。この題名は1980年代のアメリカの、カントリー音楽の歌の題名にありそうだ。この頃のカントリー音楽の題名には惹かれるものがあり、なんとか小説の題名に使えないものか、と思案していた時期だ。『いつまでもとは、いつまでか』という題名の歌がウィリー・ネルソンにある。これは使えるはずだと、いまひそかに思っているところだ。

文=片岡義男

公式サイト「片岡義男.com」https://kataokayoshio.com/

→次ページ:YAMAHA RD250ミニヒストリー

YAMAHA RD250ミニヒストリー

『ボビーに首ったけ』に登場するヤマハRD250は、当時の若者たちが好んだ、「速いオートバイ」を象徴する一台であると同時に、最もヤマハらしさが現れた一台でもある。〝4サイクルのホンダ〟〝2サイクルのヤマハ〟という表現を、オートバイ好きの方なら一度は耳にしたことがあるだろう。現在では環境的な問題から、国内ではほぼ絶滅してしまった2サイクルエンジンだが、90年代までは軽量かつパワフルなスポーツユニットとして、ほぼすべてのメーカーのレーサーレプリカに搭載されていた。
 ヤマハ発動機は、いわば2サイクルエンジンのリーディング・カンパニーとして、その名を知られた存在だった。たとえば、オートルーブ(分離給油)方式の開発。1964年にヤマハが「YA6」で初めて実用化したこのしくみは、それまでガソリンに直接、潤滑オイルを混ぜていた(混合給油)2サイクルのオートバイから、オイルを混合する手間を省き、その利便性は後の2サイクル原動機付き自転車の爆発的な普及につながった。
 また、最高峰の2輪ロードレースである「世界GP」の舞台から4サイクル車を駆逐し、一時期、2サイクル車だらけにしたのも、ヤマハの活躍によるところが大きい。ヤマハというメーカーは2サイクルエンジンの普及と性能向上に大きな役割を果たしてきた。そして、RD250は、そんなヤマハが、レーサーの息遣いを感じさせる生粋の2サイクルスポーツとして70年代に登場させた意欲作である。

■国産初のレーサーレプリカのDNAを受け継ぐスポーツモデル RD250(1973年)

1973_RD250_NA_JPN_61134.jpg

全長×全幅×全高=2,040×835×1,110(㎜) 車両重量=140㎏ エンジン型式=2サイクル並列2気筒 排気量=247cc 最高出力=30ps/7,500rpm 最大トルク=2.9㎏-m/7,000rpm 変速機=6速

 RD250のルーツは、50年代に開催されていた「浅間火山レース」に参戦した「YDシリーズ」に求めることが出来る。1955年、弟1回の浅間火山レースに市販車YA-1をベースとする「YD-1A」で参戦したヤマハは、1位~4位を独占。57年の第2回でも優勝を飾る。北米での知名度向上を狙ったヤマハは、翌58年、アメリカの「カタリナGP」に、さらに性能をアップした「YD-1B」で参戦。天才ライダーと謳われた伊藤史朗の活躍により、見事6位入賞を果たした。そして、このYD-1Bの市販モデルとして59年に発売されたのが、RD250の直系にあたる「YDS1(発売当初の名称はスポーツ250S)」だ。国産初のレーサーレプリカであるこのオートバイは、レーサーYD-1Bのエンジンを20psまでデチューンしてクレードルフレームに搭載、ミッションにも初の5速が採用されるなど、実用車然としたそれまでのオートバイとは一線を画していた。

 YDS1はその後、YDS2、YDS3と進化し、ヤマハ製スポーツモデルの定番としての地位を固める。またレースシーンにおいては、新開発のロータリーディスクバルブ方式とオートルーブによる強制潤滑を採用したレーサー「RD56」が、64・65年の世界GP250ccクラスでメーカータイトルを獲得。その後の世界GPの2サイクル全盛時代を決定付けた。
 YDS3からDS5E、DS6と受け継がれたヤマハ製2サイクルスポーツのDNAは、70年、レーサーTD譲りの車体とエンジンを採用した「DX250」に進化する。DX250には「RX350」という車体を共用する上位モデルも用意されており、これがその後のRD250/RD400の基礎となった。
 RD250のデビューは73年。エンジンや車体の基本部分はDX250と同様ながら、RDのエンジンには新たに7ポートトルクインダクションが採用されていた。このシステムは、燃焼室内に残留した排ガスが吸気を妨げる2サイクルエンジン特有の現象を、新設されたポートで掃気効率を高めることによって低減するというもの。さらにミッションには、よりスポーティな6速が奢られていた。74年のマイナーチェンジでは、排気音低減のためにマフラー長を40㎜延長、シリンダーヘッドにも防振ゴムが装着されるなど、実用面での性能が高められている。

■スタイルを全面的に刷新した2代目モデル RD250(1976年)

1976_RD250III_B_JPN_30463.jpg

全長×全幅×全高=2,005×830×1,085(㎜) 車両重量=152㎏ エンジン型式=2サイクル並列2気筒 排気量=247cc 最高出力=30ps/7,500rpm 最大トルク=3.0㎏-m/7,000rpm 変速機=6速

 76年にフルモデルチェンジを実施したRD250は、直線基調の燃料タンクを装着したヨーロピアンスタイルに変貌。足回りは前後ディスクブレーキでグレードアップされ、エンジンの冷却性や騒音・振動面の性能向上も図られた。また、翌77年のマイナーチェンジでは、カラーリングの変更とともに、シート高が5㎜下げられている。年式からみて、小説に登場するRDはこの世代のものだろう。

■丸みを帯びたスタイルを採用した3代目モデル RD250(1979年)

1979_RD250_WW_Other_61037.jpg

全長×全幅×全高=1,995×770×1,065(㎜) 車両重量=150㎏ エンジン型式=2サイクル並列2気筒 排気量=247cc 最高出力=30ps/8,000rpm 最大トルク=2.9㎏-m/7,000rpm 変速機=6速

 79年から登場した最終モデルは、2代目の直線的なスタイルから一転、丸みを帯びたラインが印象的な姿に生まれ変わった。足回りには当時流行していたキャストホイールも装着。エンジンのスペックはほとんど変わっていないが、ポート形状の変更などの改良が施されている。兄貴分のRD400のほうは「RD400Fデイトナ」として、ほぼ国内仕様と同じスペックのまま、北米にも輸出されていた。

 RD250/400のように、70年代の同クラスのオートバイは、250ccと400㏄で車体を共用するのが一般的だった。しかし、この手法の問題点は、250ccの動力性能を400㏄に比べて著しく下げてしまうことだった。RD250(30ps・150kg)とRD400(40ps・153kg)を比べると、パワーウエイトレシオでいえば250ccが圧倒的に不利になる。これはホンダのCB250T/CB400Tといった他のメーカーでも同じだった。そして、これらの鈍重な4サイクル250ccの存在は、動力性能で優位に立つ2サイクルモデルにとっては逆に追い風だった。RD250やスズキRG250、カワサキKH250らの当時の2サイクル勢は、明らかに他の4サイクル250ccよりも加速性能に勝り、軽快だったからだ。
 そんなとき、カワサキからこの手法の真逆を突いたモデルが発表された。79年発売のZ250FTとZ400FXである。カワサキはZ400FXを重厚な4気筒モデルと位置付け、逆にZ250FTは250cc専用設計の車体を持つ軽快なスポーツモデルに仕上げていた。250ccモデルの軽さや燃費の良さを前面に押し出す手法は、80年のホンダCB250RSでも採用され、好評を博した。逆に、折から排ガスの汚さや燃費の悪さが指摘されていた2サイクルモデルは、その存在価値が疑問視され始めた。

■日本名「RZ250」、海外では「RD250LC」 RZ250(1980年)

1980_RZ250_NPW_JPN_3_365189920_365189921_259809742.jpg

全長×全幅×全高=2,080×740×1,085(㎜) 車両重量=139㎏ エンジン型式=水冷2サイクル並列2気筒 排気量=247cc 最高出力=35ps/8,500rpm 最大トルク=3.0㎏-m/8,000rpm 変速機=6速

 環境や騒音問題で、世間がアンチ2サイクルに走ったとき、ヤマハから彗星のようにデビューしたモデルがあった。RZ250である。RZ250の輸出仕様名はRD250LC、つまりRZは事実上、RDの4代目モデルということができる。RD250に比べ5psも大きい35psの最高出力で登場したRZ250は、国産250cc初の水冷エンジンを搭載。マフラーにはレーサーと見間違えるようなチャンバータイプが採用され、足回りにも最新のモノクロスサスペンションが奢られるなど、従来の常識では考えられなかった性能と装備を誇っていた。その進化の度合いは、あたかも10年先のモデルが、突然、目の前に現れたかのような衝撃をライダーたちに与えた。
 そして、この1台の登場により、消えかかっていた2サイクルの灯は復活し、その後のレーサーレプリカ・ブームへとつながっていく。もしRZ250が登場していなければ、日本の2サイクルスポーツは20年早く消滅していたに違いない。国産車初のレーサーレプリカであったYDS1の血脈は、レーサーTZ250レプリカといえるRZ250に受け継がれ、再び日本のオートバイ業界を震撼させたのである。

写真協力=ヤマハ発動機(株)
参考資料=自動車ガイドブック(日本自動車工業会)、日本のモーターサイクル50年史(八重洲出版)、YAMAHAⅠ(ネコ・パブリッシング)

この記事をシェア

  

応募する

応募はこちら!(7月31日まで)
応募はこちら!(7月31日まで)