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ライフスタイル最終更新日:2016.07.10 公開日:2016.07.10

第4回 平賀源内(1728~1779)

あるときは本草学者(今で言う薬学や博物学者)、あるときは芸術家、またあるときは、発明家として日本初の発電器・エレキテルを作ったことで有名な平賀源内。ほかにも、焼物や鉱山の開発に携わるなど、ジャンルを越えて活躍し、”日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ”とも言われています。

源内は、享保13(1728)年、讃岐の志度浦(しどうら)(現在の香川県さぬき市志度)で、高松藩の米蔵番をしていた白石茂左衛門の三男・四方吉(よもきち)として生まれました。
一人で、草木や石、職人の仕事をじっと眺め続けているような子供が、まわりの大人を驚かせたのは11歳のとき。床の間の掛け軸に描かれた天神さまの前に酒を置いて手を叩くと、天神さまの顔がパッと赤くなる「からくり掛け軸」を作って見せ、「天狗小僧」のあだ名をつけられたのです。その頃から本草学の手ほどきを受け、藩の薬園に関わりますが、一方で、大人顔負けの俳句を作るなど、マルチな才能はすでに開花していたよう。その後、亡くなった父の跡を継ぎ、21歳で、藩の米蔵番になると同時に「平賀」姓を名乗るようになります。

転機が訪れたのは24歳のとき。先生のお供で、当時唯一の海外への窓だった長崎へ遊学、それまで見たこともなかった西洋の文化と出会うのです。28歳のときには江戸に出て、本格的に本草学を勉強、その3年後には、人並みはずれた発想力を発揮して、日本で初めての博覧会を開き、大成功を収めます。藩からは、米蔵番としては異例の出世を言い渡されますが、源内は、その、ささやかながらも安定した生活を捨て、辞表を出したのでした。他藩への仕官は認めない条件で受理され、本格的に江戸での浪人生活を開始したのは、源内33歳のことでした。

それまでも、藩の命令で三浦半島や紀伊半島で貝を集めたり、さまざまなことに手を染めていましたが、浪人になってからは研究費や生活費を稼ぐため、小説や戯曲なども多数執筆、「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」は今でも歌舞伎や浄瑠璃として上演されています。また、幕府の命で伊豆へ芒硝(ぼうしょう)(下痢・利尿剤として利用された)を作りに行ったり、秩父に金の採掘に行ったり。その後、18年ぶりに訪れた半年間の長崎留学で、エレキテルという壊れた箱を持ち帰り、6年あまりをかけて自力で復元、48歳のとき、日本で初めての静電気発生装置を作ったのです。
ほかにも、源内による「日本で初めて」は数え切れないほどあり、アイデアと行動力を兼ね備えた源内は、当時から有名人で人気者だったそう。『解体新書』を作った親友・杉田玄白をはじめ、多くの人たちと親交があったと言われています。
エレキテルで一世を風靡してからわずか3年後、ふとしたことから人を殺(あや)め、獄中で病死という非業の死を遂げました。

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平賀源内記念館。目の前の通りは「源内通り」。

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源内の胸像。作者は、香川県出身の彫刻家・小倉右一郎。

故郷の志度に平成21年3月オープンした「平賀源内記念館」は、「源内の歩いた各地を歩く」がコンセプト。志度・高松はもちろん、長崎、伊豆・秩父・秋田、江戸と、それぞれの地にまつわる展示を見ながら、源内のすごさに触れることができます。
取材当日は、砂山長三郎館長と、源内の末裔である平賀一善さんが案内してくれました。

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館内の「源内小路」を歩いて、鑑賞します。

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平賀一善さん(左)と、館長の砂山長三郎さん。

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源内が11歳のときに作った、からくり掛け軸「お神酒天神」。すぐ横には、しかけがわかる実験コーナーもあります。

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源内自ら描いた「西洋婦人図」(神戸市立博物館蔵)。2度目の長崎留学の際に見た西洋原画をもとに描いたものと推測されています。源内は、『解体新書』の挿絵を描いた、秋田・角館出身の小田野直武にも、多大な影響を与えました。

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『物類品隲』

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これは必見! 源内作エレキテルの現物!

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体験コーナーではエレキテルのしくみを知ることができます。

当時、珍しくて高価だったであろう蔵書のコレクションや、細かく丁寧に書かれた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を見ていると、源内の勤勉さや粘り強さが感じられます。その一方で、とても品がいいとは言えない小説もあり、その振り幅の広さにびっくり。しかし、その人間くささこそが源内の魅力なのかもしれません。
「人懐っこい性格でいろんな人にかわいがられ、ネットワーク作りに長けていたと思います」と、館長さん。
誰かが困っていたら、必ず何かアイデアをくれたり、人と人とを結びつけて何かを作り出すことにおいても、まさに天才的だったそう。
「しかしそれゆえ、当時の発明や発見が、みんな源内のものだろうと思われがちな節もあるんです」
土用(どよう)の丑(うし)の日にうなぎを食べる習慣も、夏に暇で困っていた鰻屋を助けてあげようと源内が考えたものと言われますが、一浪人だった源内についての史実はあまり残っておらず、なかには真偽がわからないものもあるのだそうです。

小学校の校歌にも源内の名が出てくるという志度は、四国霊場86番札所・志度寺の門前にある、静かな港町。かつては、源内が伝えたというサトウキビから作った和三盆糖で栄え、今もところどころに立派な古い家並みが残ります。
そんな町並みを眺めながら、源内ゆかりの場所が点在する「源内通り」を歩いていると、飛行機も新幹線もない時代に、南は九州から北は東北まで諸国を歩き回り、生涯独身だった源内の一生に、ふと思いを馳せてしまいます。
天才とも山師とも言われた源内は、はたして幸せだったのか。
その答えはもちろん誰にもわかりませんが、この町の風土と人々が、源内を育み、死後230年あまりが経った今でも、源内を愛し、尊敬し続けていることだけは、紛れもない事実なのでした。

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記念館から550mのところにある、源内旧邸(生家)。

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庭には、源内ゆかりの薬草園と焼物工房があり、健康茶も販売しています。

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旧邸の隣に建てられた、平賀源内銅像。台座には、親友・杉田玄白の「嗟(アア)非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行イ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」の文字が刻まれています。

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志度寺の隣、自性院にある源内の墓。

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志度寺に続く「源内通り」には、お遍路さんの姿も。

平賀源内記念館
香川県さぬき市志度587-1 ℡087・894・1684
【開】9:00~17:00 【休】月曜(休日の場合は火曜)、年末年始
【料】500円(平賀源内旧邸、薬草園含む)
☆JAF会員証提示で10%引(5名まで)

撮影=村上宗一郎 

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