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ライフスタイル最終更新日:2016.09.14 公開日:2016.09.14

皆の衆 最終話(10月号) 大阪のお話

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イラスト=渡辺コージ

 2011 年3 月11 日、東日本大震災が起きた。悲しい人、困っている人、心配している人、そして、焦っている人。国中が大混乱だった。

 わたしはそのときひとりだった。「虚脱」という言葉がいちばんふさわしかった。テレビからさんざん流れてくる「絆」や「復興」という言葉も、どこか上の空で聞いていた。

 ただ、ひとつ思ったこと。それは旅に出たいということだった。

 震災から半月ほど経った頃、ふらりと大阪に行った。旅先のホテルで「感覚的な」余震を感じて夜中に飛び起きたりした。大阪のホテルから出向いた奈良からの帰り道、電車の車窓から外を眺めていて、ふと涙が滲んだ。ずっとひとりで誰とも話をしていなかったが、気が緩んだのか。大阪の景色を眺めながら、他の人に気付かれないよう、サングラスの下の目頭をそっとぬぐった。

 その時、なぜ、旅に出たのか。それはわからない。震災で震えあがった関東の窮屈さから逃げ出したかったのかもしれない。旅先で誰かに出会えば、自分を救ってくれるかもしれない。いや、そんなことよりも、単純にひとつのところに留まっている意味を失っただけなのかもしれない。考えはいっこうにまとまらないまま、とにかくわたしは、その時から「旅に出る」ようになった。

 街道には美女がいる。こんな主旨でこのJAF Mate で連載を始めさせてもらった。最初の取材に出たのは、東日本大震災から約半年が過ぎた2011年の秋から冬にかけての頃だった。

 約50人の美女にご登場願った連載は、引き続き、「ニッポンの皆の衆」という、現地で出会う、古今東西のおもしろ人物物語に企画が変わり、約5年近く原稿を書かせていただいた。

→次ページ:「ものづくりの街、大阪」

ものづくりの街、大阪

 大阪はものづくりの街だ。古くは電球のソケットからテレビドラマでも話題になったロケット部品まで。いまや、なにわの中小企業のおじさんたちは、世界に誇れる頼もしき衆だ。
 食い倒れの街で、食の楽しみにどっぷりと浸かる旅もいいけれど、そんな「なにわの衆」が残した「良品」の遺産を感じる旅もいい。

 大阪を旅して改めて気づいた。それは、大阪は魔法瓶の街だということだ。

 魔法瓶は、1881年にドイツの研究者が、液化ガスの保存用に製作した、二重壁のガラス瓶(壁間は真空)が、その原型とされている。その後、イギリスで内部のガラスを銀メッキ加工した「デュワー瓶」と呼ばれるものが製作され、1904年にはドイツのテルモス社が商品化に成功。1908年、「寒暖瓶」の名で日本に輸入された。

 1918(大正7)年に象印マホービンが、また1923(大正12)年にタイガー魔法瓶が設立され、国産の魔法瓶がお茶の間に姿を現した。

 象と虎のシンボルマーク。両方とも大阪を本拠地とする会社だ。これは電球のガラス製造技術や「真空」の技術が魔法瓶製造の技術に応用できたため、ガラス製造の本場であった大阪に魔法瓶を作る業者が続々と現れたことが原因である。

 魔法瓶の構造自体は、ガラス製の二重壁の間を真空状態にし、温度を保つという比較的シンプルなものだ。だが、その構造のおかげで初期の魔法瓶は「割れる」という特性を持った。

 魔法瓶自体の重量も重く、落としたりぶつけたりすると内部の銀メッキされたガラスが粉々に割れた。現在のようにモノの溢れる消費社会ではなく、大枚はたいて買った大切な魔法瓶。母親に怒られながら、一緒に修理に出しに行った記憶が脳裏をよぎる。

 魔法瓶は、長い間、お茶の間やアウトドアで活躍し、少しずつ進化しながら愛され続けている。こどもが遠足で落っことしては割り、おとうさんがちゃぶ台ひっくり返しては割る。

 いつでも熱々のお茶が飲める。魔法瓶のおかげで茶の間には「温かい空間」が生まれたけれど、それはまた同時にもろく壊れやすいものでもあった。

 ふと、目を閉じると、コタツの上にみかんの籠と一緒に置かれていた花柄の魔法瓶の姿をいまでも思い浮かべることができる。

 おかあさんの作る覚えたての洋食と魔法瓶。それはある意味、家庭に咲いた昭和の花だった。

 大阪天満にある象印まほうびん記念館では、魔法瓶だけではなく、炊飯器、電子ジャーなど、茶の間で元気に活躍した数々の民具の歴史が眺められる。

 歴代のCMなども観られ、(たとえば栗原小巻、岩下志麻など)、それらの製品がいかに茶の間に浸透させたい便利で大事な商品だったのかということがよくわかる。

 大阪の「良品」は魔法瓶だけではない。この街からカップヌードルが生まれたこともまた有名である。

 台湾出身の安藤百福氏は大阪に日清食品を設立、カップヌードルを世界ブランドに育て上げた。池田市にある記念館は、現在外国人観光客に大人気だ。

 まだまだある。「グリコのおまけ」のグリコ(江崎グリコ)も大阪だ。難波にある例の電飾看板はいまさら説明するまでもないだろう。

 1982年、映画『E.T.』のなかで、E.T.を籠にのせ、こどもたちが空へと舞い上がった。その時に乗っていたBMXは「メイドインなにわ」。世界に誇る「KUWAHARA」ブランドとして、いまも健在である。

 日本人が創り出したモノという視点で大阪を訪ねてみる。数多くの「なにわの良品」の陰には、家庭のぬくもりが横たわっている。わたしの目にはそう映っている。

 5年前、わたしが大阪で感じた安堵感。そして、街のぬくもり。それは、単なる気のせいかもしれない。だが、いまでもわたしの心に、いい思い出として残っている。

→次ページ:「新たなる妄想の旅へ」

新たなる妄想の旅へ

 連載終了にあたり、最後にちょっとだけ、誌面を頂くわがままをお許し頂きたい。

 わたしは「場所」に対してこう思っている。ある場所では、事件や現象や出来事が起こる。そして、そのそれぞれは時空を超えて空間にインプリント(刷り込み)されていく。それはときには聖地や神社になり、また怨嗟を残した妖しき場所にもなる。

 人々だけではない。場所に残る「思い出」が歴史を育み、いま現在の場所を、その場所たるものとして存在させているのである。

 そして、その思い出、記憶は、どんなにくだらないことでも等価値だ。こどものころ感じた妖怪への恐怖でもいい、また夕飯時に嗅いだ、玉ねぎの入ったカレーライスの匂いでもいい。白黒テレビに映しだされた外国産のアニメ番組だっていいのだ。

 懐かしい、と人は簡単に口にする。だが、その懐かしさの裏にある驚きだったり怖さだったり、また見逃していた事実だったりをきちんと認識することは少ない。

 たとえば、有名な龍安寺の石庭。石庭は「そこに石がある」という記憶の積み重ねで、現在もそのかたちが保たれているのだと思う。

 旅先には、その場所をその場所として存在させている「記憶遺産」がある。

 とりあえず、ニッポンを巡った。一度、筆を置く。だが、新たなる妄想の旅はこれからも続けようと思う。

→次ページ:「なにわ良品遺産を感じる旅」

なにわ良品遺産を感じる旅

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大阪天満にある「まほうびん記念館」(象印マホービン)は、事前予約制で一般見学ができる。

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大阪・池田市にあるインスタントラーメン発明記念館(日清食品)は、インバウンド客に大人気。「インスタントラーメンの神」安藤百福翁像が迎えてくれる。

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おなじみ難波のグリコの看板。元気か哀愁か。それは、見た人の体調次第!?

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大阪はいつの時代も活気に溢れ、食べ物、良品、そしてたくさんの「すごい人」を生み出している。

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大阪万博から46年。あんなにとがってたはずの「太陽の塔」が、もはや観音様級の安寧を生み出している。

→【バックナンバー】これまでの「ニッポンの皆の衆」を見る

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