池袋六ッ又交差点はなぜ「魔の交差点」になったのか? 昭和期にはコントロールタワーも登場! 【いま気になる道路計画】
東京都内でも屈指の交通事故多発地帯として知られる「池袋六ッ又交差点」。大きな原因のひとつが六差路という複雑な構造だ。高度経済成長期を迎え、自動車の交通量が激増した昭和中期には、常態化した渋滞と増え続ける交通事故が課題となった。当時はこれらの課題を解消するため「コントロールタワー」なるものまで登場。当時の写真とともにその歴史を振り返ろう。
この記事をシェア
複雑すぎる六差路では交通事故が多発
池袋六ッ又交差点は、明治通り、川越街道(国道254号)、都道435号(音羽池袋線)、区道が交差する六差路だ。さらにその真上には首都高速5号池袋線と池袋六ッ又陸橋が通り、高架の橋脚が視界を遮るため、見通しが悪いときている。
また、路面に描かれた矢印や案内線もわかりにくいもので、停止位置や通行ルートが直感的に理解しにくい。これらの要素が組み合わさり、追突や出会い頭の事故が多発。日本損害保険協会の「全国事故多発交差点マップ」のランキングでワースト1になってしまった。
そもそも、いつから六差路なのだろうか。その歴史を調べるため「豊島区史」を読んでみると……。
コントロールタワーがある時代もあった!?
高度経済成長期には自動車の普及とともに交通量が急増し、世は交通戦争時代に突入。当時の六ッ又交差点は、すでに1日平均約6万8000台の車両が通過する交通の要所となっており、年間約500件(1959年)もの事故が発生する都内一の事故多発地であった。
この状況を改善するため、1962年(昭和37年)に設置されたのが都内初の「コントロールタワー」だった。既存のロータリーを取り壊し、その中央部に管制塔を建設した。
その写真がこちら。
背後の建物と比較して、おおよそ地上2~3階ほどの高さであるとみられる。タワーの中央部には各道路の車両用の信号機。その上部には管制室。中に人がいるのも確認できる。頂上の円盤状の構造物がなんとも近未来的だ。が、管制室のスタッフが道路状況に応じて信号を手動で制御するシステムとなっていた。
写真の位置も確認しておこう。写真の左側は池袋駅方面、右側は王子方面となる。右上から時計回りで、明治通り(至王子方面)、春日通り、都道435号(至現サンシャインシティ方面)、明治通り(至池袋駅)、川越街道(至板橋方面)。特に、川越街道(南行き)の渋滞は顕著で遠くまで車両が列をなしているのが見て取れる。
この「コントロールタワー」は交通事故減には一定の効果をあげたものの、渋滞解消には至らず、わずか5年余りで撤去されることになった。渋滞の根本的な原因は、川越街道と複数の鉄道路線の交差部にあった「池袋大踏切」であり、この開かずの踏切の高架化を待つより他はなかったのだ。
六ッ又交差点が五ッ又交差点に……!?
池袋六ッ又交差点の渋滞と交通事故の課題に対応するため、1964年(昭和39年)、東京都は「池袋六ッ又陸橋」の建設を決定。その上には首都高速5号池袋線も計画され、交差点は三層構造に進化した。しかし、この過程で歩行者やドライバーの視界がさらに悪化し、結果的には事故の多発が続くことに。
国土交通省の東京国道事務所は、現在の六差路を五差路に改良する工事をはじめている。明治通り(至池袋駅)と川越街道(至板橋方面)の間で六差路に交差して突き当たる区道を廃止することで、根本的な課題解決を目指すとしている。
ドライバーは池袋六ッ又交差点を通行する際、複雑な構造であること、交通事故が多発していることを認識して慎重にハンドルを握ってもらいたい。
記事の画像ギャラリーを見る