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最終更新日:2024.05.17 公開日:2024.05.17

国道1号は東京-大阪間ではなかった!? 横浜と伊勢に終点が移り替わったのは何故?

国道1号は起点の東京・日本橋から終点の大阪・梅田に至る。しかし実は、終点を大阪としたのは昭和になってからのこと。明治と大正で終点は違っていたのだ。路線を2度にわたり変更した国道1号の変遷を読み解く。

文=KURU KURA編集部

国道1号の終点、明治・大正・昭和でどう変わった?

小田原市内にある国道1号の標識(通称おにぎり)。

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国道1号の起点は東京の日本橋、終点は大阪の梅田である。江戸期の「東海道」を踏襲する(ただし、経路はすべて合致していない)日本の大幹線として、今も昔も機能している。

しかし、その終点は明治、大正、昭和で移り替わっており、はじめから「大阪」だったわけではない。それでは時系列に沿って国道1号の変遷をみていこう。

【明治】 <起点>東京・日本橋〜<終点>神奈川・横浜港

明治の国道1号は現在の国道15号とほぼ一致しており、横浜港に向かっていた。(画像:国土交通省川崎国道事務所の資料を元に作成)

国道のはじまりは1876年(明治9年)まで遡る。このとき、全国の道路を「国道」「県道」「里道」の三種に分類し、それぞれ「等級(一等・二等・三等)」に分別した。そして、1885年(明治18年)、国道1号~44号の44路線(欠番なし)の「明治国道」を定めるに至った。なお、明治国道は改正と追加を繰り返し、最終的には全61路線となっている。

1885年(明治18年)時点の国道1号の起点は日本橋、そして終点は横浜港とされた。この日本橋から横浜までの路線は、現在の国道15号とほぼ一致している。

何故、横浜港なのか。それは「一等」の国道1~8号は「東京より各開港場に達するもの」と定められたからだ。ちなみに、2号は日本橋-大阪港(横浜までは1号と重複)、3号は日本橋-神戸港(大阪までは2号と重複)で、東京から各開港場まで達した。

東京と伊勢の皇太神宮を結ぶ二等の9号など、全44路線を定めた。(画像:国土交通省)

【大正】<起点>東京・日本橋〜<終点>三重・伊勢神宮

大正国道の1号は日本橋と伊勢を結んでいた。

急速に近代化と民主化が進んだ大正期。自動車の普及と交通量の増加で道路の整備を進めなければならない状況を背景に、日本初となる「道路法」を1919年(大正8年)に制定(旧道路法)。これによって再編されたのが「大正国道」である。

全64線のうち、38路線は東京を中心に各県庁所在地、師団司令部所在地などを結ぶ路線、26路線は軍事の目的を有する路線であった。

このとき、国道1号は東京(日本橋)と三重(伊勢神宮)を結ぶ路線に変更した。明治国道の9号(日本橋-伊勢神宮)を1号に格上げしたかたちとなった。

明治国道と同様、大正国道も改正と追加を繰り返し、太平洋戦争の終結時には全82路線に増加。1952年(昭和27年)の新道路法制定まで、制度は継続された。

【昭和】 <起点>東京・日本橋〜<終点>大阪・梅田

現在の国道1号。東海道を踏襲する大阪までの路線に変更。

戦後の復興と経済成長を目指すなか、1952年(昭和27年)に制定された新道路法(現行)では、国道を「一級国道」と「二級国道」に分類した。

一級国道は「国土を縦断・横断、または循環し、全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、かつ都道府県庁所在地、その他、政治・経済・文化上、特に重要な都市を連絡する道路」とされ、一級国道1号として、起点・東京都中央区(日本橋)-終点・大阪市北区(梅田)の路線を指定した。

なお、国道の級別は1964年(昭和39年)の道路法改正をもって廃止され、この「一級」国道1号も「一般」国道1号となり、現在に至る。

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