吉田 匠の『スポーツ&クラシックカー研究所』Vol.05 フェラーリを超えるスーパースポーツを目指した「ランボルギーニ」後編。
モータージャーナリストの吉田 匠が、古今東西のスポーツカーとクラシックカーについて解説する連載コラム。第5回は「ランボルギーニ」について。同社はいかにして世界屈指のスーパースポーツブランドになり得たのか、前後編の2回に分けてお届けする。今回はその後編。
<後編/1970-90年>
真打ち登場!
1970年代に入ると、ランボルギーニはさらに変貌を遂げていく。まずはV6エンジンの小さなフェラーリ、ディーノに対抗するべく2.5リッターV8エンジンをミドシップに搭載した2+2座のウラッコP250を70年秋に発表、後にその2リッター版と3リッター版のP200 とP300を追加して、ディーノ包囲網を固める。これもボディスタイリングはベルトーネのガンディーニによるデザインだった。
さらに同じ1970年、ランボルギーニはカロッツェリアトゥーリングの廃業によってボディの供給元がなくなったイスレロに換わる2+2座GTとして、これもベルトーネボディのハラマ400GTを発表。これまたガンディーニのデザインの手になるボディは、イスレロよりずっと現代的かつ個性の強いものだった。4リッターV12エンジンは350psを生み出し、5段ギアボックスを介しての最高速は260km/hといわれた。
Lamborghini Jarama
1971年になると、70年代ランボルギーニを象徴するモデル、いわば真打ちが登場する。ミウラに代わるミドエンジンのスーパースポーツ、カウンタックのプロトタイプLP500がジュネーヴショーでデビューするのだ。やがて74年、それがカウンタックLP400として販売開始される。それはミウラとはまったく別物のシャシーを持つクルマで、4リッターV12エンジンをコクピット直後に縦置きし、しかも通常とは逆にトランスミッションをエンジンの前方に突き出した、独特のレイアウトを採っていた。それは、横置きエンジンのミウラで苦労したギアシフトフィールの向上を意図したためと思われる。
カウンタックの最大の魅力は、ガンディーニが持てる才能すべてを発揮したといえるそのスタイリングにあるといっていい。ややクラシックな雰囲気も備えていたミウラと違って、カウンタックは70年代前半当時のトレンドだったエッジーなウェッジシェイプ デザインをピュアに表現したもので、見る者を驚かせる大胆さに満ちていた。ちなみに日本で”カウンタック”と呼ばれるCountachというイタリア語は、同国ピエモンテ地方の方言で「スゲー!」といった意味のContacc=クンタッチに由来するものといわれる。
Lamborghini Countach
1974年に発売されたカウンタックLP400は、4リッターV12エンジンから385psを発生、1200kgと公表された車重を300km/hの最高速に導くとされた。それに対して、4.4リッター水平対向12気筒エンジンをミドシップに収め、対カウンタックの急先鋒として登場したフェラーリ365 GT4/BBはトップスピード302km/hを標榜、BBこそが世界最速のロードカーだと豪語した。しかし実際はLP400もGT4/BBも300km/hに達することはなく、あくまでカタログの紙の上での争いだった、というのはよく知られた話だ。
カウンタックはその1974年LP400をベースに、78年LP400S、82年エンジンを4.8リッターに拡大したLP500S、85年エンジンをさらに5.2リッターに拡大し、気筒当たり4バルブに変更したLP5000 QV=クアットロヴァルヴォーレとモデルチェンジしていき、90年にディアブロにその座を譲って生産を終了する。モデルチェンジするごとに、ボディ前後やサイドにスポイラー類やエアインテークなどが加えられ、スタイリングは徐々に仰々しくなっていった。
スタイリングの好みは人それぞれだから、どれがベストであるとは言い難いが、敢えて筆者の見解を書かせてもらえば、ガンディーニのデザイン意図が最高にストレートに表現された最初期のLP400が、デザイン的にもっとも魅力的なカウンタックだと思う。
と同時にドライビングしても、スーパースポーツらしさをもっとも明確に実感できるのは、LP400だったといえる。ボディサイズのわりに軽快な身のこなしは、そのスタイリングと同じく、カウンタックが本来目指していたスーパースポーツの本質を実感させる、魅力的な感触だった。ついでに書いておけば、LP400の生産台数はたった150台といわれ、歴代カウンタックのなかでも最も少ない。
V8シリーズと異色のスーパーオフローダーLM002
カウンタックが幾多の新型に発展していく間にも、V8ミドエンジンのウラッコをベースにしたシルエット、ジャルパといったアグレッシブで戦闘的なスタイルを持った派生モデルが誕生していた。しかもさらにそれに加えて、まずはチータという名のミドエンジンのオフロードモデルとして1977年に登場した後、カウンタックと同じV12エンジンをフロントに搭載した強力にして巨大な砂漠を走るためのランボルギーニ、あるいはオフロードのスーパースポーツというべきLM002も、1986年についに市販開始された。
Lamborghini Uracco
フェラーリのディーノV6シリーズに対抗するべく1970年に発表されたのがV8エンジンをミドシップに横置きしたウラッコで、室内は狭いながらリアシートを備える2+2座。
Lamborghini Jalpa
ところで、1971年にカウンタックのプロトタイプがデビューした1年後、ランボルギーニには大きな出来事が起こっていた。1972年、創始者のフェルッチョ・ランボルギーニが持ち株を放出し、経営者の座から降りたのである。フェラーリを凌ぐスーパースポーツを生み出すという困難な命題をある部分では見事に達成した創始者が自らのポジションを去り、アウトモビリ・ランボルギーニはその第一期を終えたのだった。
その後ランボルギーニの経営権は何度か移動し、アメリカのクライスラーを含むいくつかの企業がそれを受け継いだが、その間にもイタリアンスーパースポーツの一方の雄というポジションは確実にキープされて、フォルクスワーゲングループの一員となった今も、ますます多くのファンと顧客を掴んでいるのはご存知のとおりである。