やっぱり”いつかはクラウン”だった
「トヨペット・クラウンRS型」4ドアセダン/6人乗り 日本製(1955〜62年) 全長×全幅×全高:4285×1680×1525mm 軸距:2530mm 車両重量:1210kg エンジン:直4 OHV 1453cc 出力:48hp/4000rpm 最高速度:100km/h 変速機:2段A/T、3段M/T サスペンション:F・Wウィッシュボーン+コイル、R・リジッド+リーフ ブレーキ:FRともドラム
日本的な品位が漂う、クラウンの美
終戦10周年を迎えた1955年、日本は夢に向かって元気一杯の時だった。人々はテレビや映画に見るアメリカに憧れ、いつかは白い大きな冷蔵庫と青い芝生の家… そんな幸せな生活を夢見ていた。当時「三種の神器」と言われた電気洗濯機に冷蔵庫、テレビは、この夢への一歩であったに違いない。巷ではマンボスタイルという黒い細身のパンツが流行り、若者はロカビリーに熱狂していた。
まだ日本車は少なく、街では、テールフィンを高々と掲げたアメリカ車が幅を利かせ、その国内シェアはなんと60%もあったのだ。
そんな時代に日本の最高級車トヨペット・クラウンが誕生した。派手なアメ車とは違い、黒塗りのクラウンには、どこか日本的な品位が漂っていた。社内でデザインされ、車名をクラウン=王冠としたことからも、トヨタの意気込みが伝わってくる。
観音開きのドアが付いたダルマ型のボディは、おおらかなデザインで、グレーの内装と相まって控えめでシンプルな雰囲気を醸し、乗る人に安堵感を与えていた。
観音開きというのは、面白いもので前席と後席の間に一体感が生まれ、会話が弾む効果がある。またサイドシルのないフラットなフロアも応接間のような雰囲気を漂わせていた。
乗り心地もいたって快適で、シートがふんわりしていたことを覚えている。リアサスペンションがリーフにもかかわらず乗り心地が良かったのは、東京大学・亘理厚教授の研究成果を活かしたフリクションの少ない3枚リーフを採用したからだ。
そして翌年には真空管式カーラジオとヒーターを備えたクラウン・デラックスが登場。クルマでラジオが聞け、毛布を持ち込む必要もなくなった。
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トヨタはクラウンを育て続けた
トヨタはクラウンを育て続けた
そんなこともあってか、このクラウンに私の両親が乗ったときは、いたく気に入った様子だった。観音開きのドアを頭から乗り込み、天井から下がった吊皮を掴んでいた。当時は路面が悪く揺れが大きかったため、豪華に織られた吊皮紐を持つのが常だった。
フラットなフロアは、乗り降りがしやすいだけでなく、掃除も簡単だった。それは従来のトラック用シャシーをやめ、低床シャシーを開発したからだ。
ところがエンジンが非力で、OHVの1453㏄は48馬力、4000回転しか回らなかった。このエンジンは53年にトヨペット・スーパーとして先行発売したもので、馬力当たりの重量は25㎏もあり、最高速度も100㎞/hである。
しかしトヨタが偉かったのは、以後、自動車産業が基幹産業として日本を牽引する役目を持つという信念のもと、クラウンの対米輸出を行ったことだ。しかし、やはり1500㏄の48馬力ではハイウェイのランプすら満足に上れず、すぐに1900㏄を投入するも、今度は電気系のトラブルで、3年後には撤退せざるをえなかったが…
またこの初代クラウンは、積極的に豪州ラリーに挑戦し、見事47位で完走したことも凄い。トヨタのモータースポーツ活動は、この57年の豪州ラリーから始まった。この時代はクルマができると、すぐにレースやラリーに挑戦し、自分が作ったものがいかに速く丈夫であるかを示そうとしたのだ。これが技術屋の本能であり本来の姿である。(関連記事)
クラウンは、初代から約60年を迎えた。いまや世界最高位の品質と性能を持ち、これほどバリュー・フォー・マネーの高いクルマはない、というところまできた。家族とのんびりしたい時には、静かに大らかに振る舞い、ひとたび鞭を入れると、V6は高性能なビートを響かせ猛ダッシュする。直噴エンジンは、トルクフルでいて燃費もいい。乗る人に安堵感を与えてくれる。この控えめでしっとりした心地よさには60年をかけてきた熟成があり、しとやかさこそが日本的な情緒で、世界に誇れる車となった。
文=立花啓毅
1942年生まれ。ブリヂストンサイクル工業を経て、68年東洋工業(現マツダ)入社。在籍時は初代FFファミリアや初代FFカペラ、2代目RXー7やユーノス・ロードスターといった幾多の名車を開発。
(この記事はJAFMateNeo2014年7月号掲載「哲学車」を再構成したものです。記事内容は公開当時のものです)