首都高今昔物語──1964年、東京オリンピックで日本の道路事情はどう変わったか
開通から約半世紀。首都高速は日本の社会をどう変えたのでしょうか。そしてこれからどう発展していくのでしょうか。首都高速研究家の清水草一氏が今と昔を振り返ります。
首都高は世界初の都市高速だった
間もなく東京オリンピック・パラリンピックが開幕する(はず)。そこで思い起こされるのは、前回の東京オリンピックだ。
首都高というと、ずばり「オリンピックのために建設された」と言われるが、正確には「もともとあった建設計画が、オリンピック開催決定でフル加速された」という形だった。64年10月のオリンピックまでに、羽田空港と都心部、そして選手村が置かれた代々木(正確には代々木出口を含む初台)までの31.3kmが開通し、オリンピックを成功に導いたのである。
建設に際しては、路線の約8割が川や運河、道路などの公用地の上空が使われた。これは、用地買収の手間をできる限り省くための知恵だった。
日本橋の上空を通過している首都高が、景観を悪化させていると言われ、地下化が決定しているが、建設当時、反対運動は皆無だった。当時の日本橋川や築地川は、ブクブクと泡立つようなドブ川で、景観もなにもなかったのである。
その後間もなくして都心環状線が輪になり、放射線も山手線の内側あたりまで完成。この効果により、オリンピック翌年には、都心部の渋滞はほぼ完全に解消された。
首都高生みの親である山田正男氏(東京都建設局長)は、「首都高速道路は、世界の都市高速道路のモデルとして大いに国威を高揚することができました」と胸を張った。首都高は世界初の都市高速。こういうものは欧米にはなかったし、今もない。
65年のデータによれば、都内の一般幹線道路の平均速度22km/hに対して、首都高は55km/h。首都高は確かに「高速道路」であった。
個人的には、この栄光の時期を体験していない。私が免許を取ったのは80年。その頃すでに首都高は、すさまじい渋滞にさいなまれ、バブル期には「首都高速駐車場」と揶揄されるまで悪化したからだ。
では、首都高の渋滞が始まったのはいつからなのか。
それは、オリンピック4年後の68年のことだった。68年11月、1号横羽線が東神奈川まで延伸開通。横浜市の中心部と東京が首都高でつながった。その翌月、交通渋滞は59件に急増。翌年は月平均100件を越えた。
最初の渋滞ポイントは、浜崎橋JCTだったという。1号線が横浜まで延びたことで、1号線の交通量が増加。都心環状線(C1)との接点である浜崎橋で上り渋滞が始まったのである。これが、その後半世紀近く続く、C1を先頭とした上り渋滞の嚆矢となった。
この浜崎橋JCTの渋滞がほぼ解消したのは、2015年のこと。この年、中央環状線(C2)が全線開通し、首都高の環状線が2本になった。この効果は絶大で、首都高の渋滞量は、バブルピーク時に比べ3分の1程度に減少している。
ではなぜ、C2をもっと早く建設しなかったのか。
実は、C2の構想が持ち上がったのは62年。前回の東京オリンピックの2年前だったのである。そのため各放射線には、あらかじめC2と接続するJCT建設を織り込んだ設計がなされた。
たとえばC2大橋JCTが、3号線にすんなり接続できたのは、それが半世紀前から予定されていたからだ。C2は、渋滞したから泥縄で追加したわけではない。公害問題などによって社会情勢が変わり、建設が進まなくなったのだ。
スタートダッシュは見事に決まったものの、その後大幅にスローダウンした首都高ネットワークの建設は、このC2の全線開通と、昨年の横浜北西線の開通をもってほぼ完了した。1960年の着工から数えて60年後のことである。
この60年間で、建設技術も社会情勢も大いに変わった。60年間営々と建設が続き、現在も現役バリバリで働き続ける首都高は、戦後史の生き証人であり、貴重な社会的遺産だ。
首都高が現在直面する最大の課題は、老朽化対策である。誕生から半世紀を過ぎ、建設年代の古い区間の老朽化が進んでいるため、5か所計9kmの造り直し(大規模更新)が進行中だ。まず1号羽田線東品川桟橋付近から着手され、日本橋付近のC1地下化もそれに含まれる。
最大の難題は、3号渋谷線池尻-三軒茶屋間だ。造り直し工事中、どうやって車線を確保するのか。ここが寸断されれば、大渋滞の発生は避けられない。その手法を巡って、現在も検討が続けられている。