2022年05月20日 06:00 掲載

ライフスタイル 高橋国光さん、たくさんの感動をありがとうございました。素晴らしい戦績と記憶に残るレースを振り返る。


タグ:

文・大谷達也

4輪ドライバーへ転身、そして舞台はル・マンへ

プリンスが開発した日本初のプロトタイプレーシングカー、R380A-IIIで疾走する高橋国光さん(1969年)

高橋国光さん・黒沢元治さんのペアで、ダットサンスポーツ240Zとともに全日本富士1000kmレースに挑む。(1970年)

1970年には全日本ドライバー選手権でチャンピオンに。完成から間もない鈴鹿サーキットにて。

日産チュリークーペをドライブし、先頭を走るの高橋国光さん。富士スピードウェイの30度バンクでは、数々の名勝負が生まれました。(1972年)

雨の中、スカイライン2000GT-Rを駆る高橋国光さん。1972年に開催された富士GC 第1戦 富士300kmにて。

 翌62年は開幕から3連勝と絶好調でしたが、難コースで知られるイギリス・マン島で生死を彷徨う大事故に遭い、一時的に戦線から離脱。その後はホンダの方針転換もあってなかなか世界の表舞台で戦うチャンスが得られなかったため、先輩ライダーだった田中健次郎さんの誘いを受ける形で1965年に日産に移籍。4輪ドライバーとしての活動を始めました。

 高橋さんは4輪レースでもすぐに頭角を現し、トップドライバーのひとりとして活躍。1972年にはスカイラインGT-Rで通算50勝目の達成に貢献したほか、オイルショックの影響で日産がワークス活動を休止して以降もプライベートチームから富士グランチャンピオンシリーズやF2/F2000選手権などに参戦し、多くの栄冠を勝ち取りました。

 私にとって印象的だったのは、高橋さんを師と仰ぐ土屋圭市さんと組んでR32型の日産GT-Rを駆り、全日本ツーリングカー選手権に参戦したことでした。とりわけオートポリスで涙の初優勝を飾ったレースのことは、いまでも忘れられません。

 さらに、その土屋さん、そして若手の飯田章さんと組んで1995年のルマン24時間にホンダNSXで参戦。「ストレートは遅いけれどコーナーは速いNSX」を駆り、激戦のGT2クラスを制したのも感動的なシーンでした。

 高橋さんは1999年、現役ドライバーから引退。4輪ドライバーとしては34年間、2輪ライダーとしてのデビューから数えれば41年間にわたる長い現役生活にピリオドを打つと、チーム国光の監督に専念。スーパーGTで活動を続け、2018年と2020年にはチャンピオンに輝きました。

スカイライン R32 GT-Rで参戦した全日本ツーリングカー選手権(1993年)

スカイライン R32 GT-Rで参戦した全日本ツーリングカー選手権。(1993年)

2020年のSUPER GTシリーズでは、GT500クラスで監督としてチームをチャンピオンに導いた。

2020年のSUPER GTシリーズでは、GT500クラスにて監督としてレースに携わり、チームをチャンピオンに導きました。

すべてはファンのために

 そんな数々の栄冠に包まれた高橋さんの人生ですが、冒頭で記したとおり、常ににこやかで、優しい口調でお話しされる、文字どおりの紳士でした。私は高橋さんがきつい言葉で誰かを叱っているとか、罵っているとか、そんな光景は一度も見たことがありません。

 また、長いレース人生のなかで、期せずして高橋さんと確執があった方もいましたが、そういった方々のお話をされるときも「あの人とはソリがあわなかったから......」といった調子で、決して非難めいた言葉は口にしませんでした。

 また、ファン思いという点でもレース界随一の存在で、悪天候でレースが中止になると観客席で待っていたファンに率先して挨拶をしたり、チーム監督になってからも常ににこやかな笑顔でファンの方々と接していたことを思い出します。

 高橋さんのご逝去は残念でなりませんが、そのご遺志は日本のモータースポーツ界に今後も生き続けることでしょう。

 改めて、高橋国光さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

ライターお勧めの関連記事はこちら