2022年05月20日 06:00 掲載
ライフスタイル 高橋国光さん、たくさんの感動をありがとうございました。素晴らしい戦績と記憶に残るレースを振り返る。
タグ:
大谷達也世界の頂点を目指して
ホンダRC162に乗る高橋国光さん。(1961年)
さる3月16日に高橋国光さんが82歳で逝去されました。高橋さんは1958年に2輪レースでデビューしたのち、1965年に4輪レースのドライバーへと転身。さらに2000年以降はチーム国光の監督としてスーパーGTなどに参戦してこられた、まさにレース界のレジェンドです。
いっぽうの私は1990年に自動車雑誌の編集部員としてモータースポーツの取材に関わり始めました。したがって、現役時代の高橋さんをほぼ10年、その後の監督時代をおよそ20年にわたって取材させていただいたことになります。
世界の頂点を目指し、命がけで戦い続けた高橋さんですが、私が知るその素顔は常におだやかで、笑顔を絶やさず、ていねいな言葉遣いで優しく話しかけてくださる、文字どおりの紳士でした。
高橋さんのキャリアはまさに成功の連続でした。デビュー戦となった浅間火山レースに18歳で優勝すると、その2年後には二輪の世界グランプリへの参戦を開始したばかりのホンダのワークスライダーに抜擢され、1960年に初出場。その翌年の1961年西ドイツGPでは早くも初優勝を果たしています。これは2輪と4輪を通じ、日本人選手が国際的なモータースポーツイベントで勝ち取った初の栄冠でした。
高橋国光さんが1961年の世界グランプリで駆ったホンダRC162。西ドイツGPでのレースは、国際的なモータースポーツの舞台で、日本人がはじめて勝利に輝いた瞬間だった。
当時の日本人ライダーと日本製バイクが、世界の頂点に立つことがどれほど難しかったか、私には想像することすらできません。なにしろ、1945年の敗戦から復興の途上にあった当時の日本では舗装路さえ珍しく、世界GPを戦うヨーロッパのオートバイメーカーと互角の性能のバイクを作るノウハウはまったくといっていいほどありませんでした。
もちろん、庶民が海外に行くなんて夢のまた夢。ヨーロッパへの直行便などまだなく、アジアの国々に各駅停車のように着陸しながら飛び続ける飛行機で西を目指したといいます。
ちなみに、高橋さんがヨーロッパに向けて出発する際には、ホンダが差し向けた巨大なアメリカ車のハイヤーが、小金井にあった高橋さんの生家に迎えにきたそうです。そして家族総出で羽田に見送りに出かけたのですが、それはもう、ヨーロッパに旅立つことがすでに命がけの冒険だったことを物語っているように思えます。
高橋さんが世界GPで初優勝したホッケンハイムは直線が多いコースで、体重が軽かった高橋さんはホンダ製マシンのパワーに助けられて栄冠を勝ち取ったと見る向きもあったそうですが、高橋さんはこれが悔しくて、その後、テクニカルコースで行なわれるアルスターGPで優勝して、ようやく自分のテクニックに自信を持つことができたと語っていました。
Category
ライフスタイル