なぜホンダ「S800」は伝説になったのか? 創成期を支えた“エス”の系譜に思いを馳せる【世界の名車・珍車図鑑】Vol.20
歴史に名を残した名車・珍車を紹介するコーナー。今回はホンダの伝説的スポーツカー“エスハチ”こと「S800」が登場!
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今や全世界で確たる地位を築いている日本の自動車産業だが、ほんの数十年前までは挑戦者の立場にあったことは、誰もが知る事実であろう。
国内市場における成功だけに満足するのではなく、世界最大の自動車マーケットであるアメリカや、自動車発祥の地、ある意味本場でもあるヨーロッパにおいても、その正味の実力で真っ向勝負を挑もうとしたチャレンジャー的なモデルは数多いのだが、そんな名車たちの伝説に触れるのがこの特集企画。
今回のテーマとして選んだのは、ホンダ創成期の傑作スポーツカー「S800」である。

ホンダ S800(スカーレット)|Honda S800
60年前の先端テクノロジーの結晶だったホンダ“エス”
ホンダ「エス」シリーズと言えば、1962年の東京モーターショー参考出品車「S360/S500」に端を発するホンダ4輪の処女作にして、同社の金字塔的傑作とも言えるスポーツカー。
すでに世界の頂点に立ちつつあったモーターサイクル譲りのテクノロジー、そして1964年シーズンから正式参戦した「走る実験室」ことF1GP譲りの技術がふんだんに投入されていた。このような量産小型スポーツカーで、これほど凝りに凝った心臓を搭載するクルマなど、当時世界のどこを探しても無かったのだ。
「時計のように精密」と賞賛されたエンジンは、シリーズ最大となる「S800」でもわずか791ccというちっぽけなものだが、二輪車ではすでに世界選手権をも制覇していたホンダがエンジンに注いだテクノロジーは、当時の常識を遥かに超える高度なものだった。
総アルミ合金製のブロックとヘッド、ダブルチェーン駆動のDOHC、京浜製4連CV可変ベンチュリー式キャブレター、独立ブランチのエキゾーストマニフォールド、そして組立式のクランクシャフトとそれを支持するニードルローラー式ベアリング。
かつてホンダが得意とした高回転・高出力のための技術が駆使されたこのエンジンは、約10,000rpmまで回せる高回転特性で度肝を抜いた上に、当時の1,000cc以下クラスの量産車としては常識外れとも言うべきパワーを発揮していたのだ。

S800MのDOHCエンジン
また、独創性が発揮されていたのはエンジンだけに留まらない。フロントサスペンションは、ダブルウイッシュボーンにトーションバースプリングの組み合わせ。リアは、チェーンドライブ機構のケースにトレーリングアームを兼ねさせるという、なんともユニークな構造の独立懸架が採用されていたのである。
くわえて、排気量をまるで感じさせない素晴らしい高性能を発揮する一方で、まだまだ劣悪だった当時の日本の道路事情のもとでも充分な耐久性と実用性を有していたことも、エスの大きな美点と言わねばなるまい。
そのパフォーマンスだけを見れば、当時の同クラスではアバルト・ビアルベロに匹敵するレベルであったが、ごく少量製作の純レーシングカーであるアバルトに対して、エスは800だけでも1万1406台、シリーズ総計では実に2万5853台(ともにホンダ発表のデータから)も生産された文字通りの量産車だったのだから、その技術力は自ずと理解できよう。

ホンダ S600 クーペ|Honda S600 Coupe
特にS600時代の1964年12月から追加された、リアにハッチゲートを持つクーペ・バージョンは、「ビジネスマンズ・エキスプレス」をメーカー自ら標榜していたことも特筆すべき事実である。
ところが、現行の軽自動車規格よりも遥かに小さな車体に組み込まれた高度なテクノロジーは、当時の技術レベルでは依然として未消化の部分もあったのも事実。結果として、度重なる改良が必要となってしまうのだ。
度重なるマイナーチェンジは、世界を見据えたもの

ホンダ S500|Honda S500
市販型ホンダ・エスの開祖は、1963年10月に正式発表された「S500」。翌年1月からデリバリーが開始されたものの、同じ1964年1月には早くも進化拡大版の「S600」がデビューしていた。そののちもS500は暫くの間併売とされたが、同年9月をもって生産を終える。
いっぽうS500に取って代わったS600だが、このモデルも寿命は決して長くなかった。1965年10月30日開幕の東京モーターショーにて、次の後継モデルとなる発展型「S800」がデビューしたことに伴って、翌年の1966年6月にはフェードアウトすることになるのだ。

ホンダ S600|Honda S600
また1966年1月から併売のかたちでリリースされたS800には、同じ年の6月に前述のチェーン駆動式独立懸架を廃して、コンベンショナルなシャフトドライブ+リジッドアクスル(当時のホンダは英国式に「ライブアクスル」と呼んだ)の後脚に変更するという、かなり大規模なモディファイが施されることになる。
さらに1968年2月には、輸出向けのS800に既に採用されていた前輪ディスクブレーキやラジアルタイアを採用したほか、北米の安全基準に合わせて3点式シートベルトや前後フェンダー先端にリフレクターを装着するなどの改良が施されたファイナル版、S800Mへと発展を遂げる。そしてM登場と時を同じくしてクーペが廃止、ロードスターのみの体制となったS800は、結局1970年5月まで生産された。

ホンダ S800M(アイボリーホワイト)|Honda S800 M
「エス」は最終モデルのS800Mでも75万円という、内容を考えれば驚くほどリーズナブルな販売価格も相まって、当時の日本人モータリストに初めてスポーツカーの楽しみをもたらした功績は極めて大きいと言えよう。しかし本田宗一郎の野心は日本国内のヒットに飽き足らず、二輪車のときと同様にかなり早い時期から世界を見据えていたようだ。
ホンダはS600時代の1965年から主にヨーロッパ市場向けに輸出を開始していたが、彼らがS500としての発売からわずか2年でS800まで次々と改良を施して行かざるを得なかった最大の理由は、輸出市場におけるS600のキャパシティや商品力に決定的な不足を感じてのことと言われている。
791ccの排気量と70ps/8,000rpmのパワーは、当時世界レベルのスポーツカーと認められるためのボーダーライン、時速100マイル(約160km/h)のマキシマムスピードを確保するには必要不可欠なものと判断された。

S800Mのインパネまわり
また前述のとおり、S800への進化直後にチェーンドライブ式のIRSからライブアクスルへと大改装したのも、製造者責任の考え方がすでに浸透していた北米においては、アルミダイキャスト製ケースにサスペンションアームの役割も兼ねさせるチェーンドライブのシステムではその責任を全うできないとの判断に基づいたもの。すなわち、スポーツカーの世界最大マーケットたる、アメリカへの輸出を見合わせていた状況を打開するためだった。
しかしながら、S800に賭けたホンダの熱意と努力は充分に報われたと見るべきだろう。「本格的100マイルカー」を堂々アピールしたS800は、ポール・フレールを筆頭とする欧米の自動車識者たち、あるいは欧米のスポーツカーマーケットにおいても高い評価を受けることになるのだ。
そして、元オスカー女優からモナコ公国王妃に華麗な転身を果たしたグレース・ケリーや、自ら所有するサーキットにて珠玉のフェラーリ製レーシングマシンを楽しむことで有名だったフランスの世界的コレクター、ピエール・バルディノンなどが愛車として選ぶなど、スポーツカーについては先達たるヨーロッパのセレブリティや上級エンスージアストからも素晴らしい評価を得るに至った。
このセレブリティたちの愛顧は日本製スポーツカーとしては、さらに言えば日本車全体としてもおそらく初めての栄誉であり、ヨーロッパでは今なお続く「ホンダ信仰」の先駆けになったと言っても、決して過言ではないと思うのである。

ホンダ S800 クーペ(スカーレット)|Honda S800 Coupe