『イタリア発 大矢アキオ ロレンツォの今日もクルマでアンディアーモ!』第50回──アルファ・ロメオと日産の合弁車は黒歴史? アルナに脚光
イタリア・シエナ在住の人気コラムニスト、大矢アキオ ロレンツォがヨーロッパのクルマ事情をお届けする連載企画。第50回は、アルファ・ロメオと日産自動車がまさかのコラボ!? かつて“最も醜い”といわれたクルマ「アルナ」について。
一致した伊日の思惑
1983年、アルファ・ロメオと日産自動車の合弁車がイタリアで誕生した。その名は「アルナ」。本場アルフィスタたちから「葬り去りたい、忘れたい1台」として語られてきたモデルである。
アルナ誕生の背景から説明しよう。1970年代末のアルファ・ロメオは危機的状況にあった。同社を傘下に置いていたイタリア産業復興公社(IRI)の官僚的体質、相次ぐ労働争議、それらに伴う品質低下に苦しめられていたのだ。当時アルファ・ロメオの広告文末には、「イタリアの技術と雇用を守るため、アルファ・ロメオを買いましょう」という、悲痛ともいえるメッセージが必ず記されていた。
いっぽう日産では、1977年に就任した石原 俊社長のもと、世界での市場占有率10%を目指す「グローバル10」構想が掲げられていた。ただし、日本から米国への自動車輸出が貿易摩擦を引き起こし、それは欧州にも飛び火。各国で輸入台数規制が敷かれ始めた。
1972年発売の普及型小型車「アルファスッド」も旧態化が進み、一刻も起死回生を図れる新型車を投入したいアルファ・ロメオ。規制を突破したい日産。両社の思惑は一致し、1980年10月、イタリアでの組立・生産に関する合弁事業契約に調印した。12月にはナポリにアルナ(Alfa Romeo e Nissan Autoveicoli)社を設立、1982年10月には南部アヴェリーノにアルナ用工場を完成させた。
参考までに、日産の国際戦略は矢継ぎ早であった。アルナの調印と同じ1980年1月にはスペインのモトール・イベリカ社に資本参加。同年7月には米国日産製造を設立している。翌81年9月にはフォルクスワーゲン社と生産・販売に関する契約を締結。84年4月には英国日産製造を創設した。
アルナのベース車は1982年のフロントドライブ車「パルサー」N12型に決定した。なお、2022年11月アレーゼのアルファ・ロメオ博物館で開催されたイベントで説明されたところによると、正確には姉妹車「ラングレー」を基とした。
ボディ外板、後サスペンションは日本から輸送、水平対向4気筒エンジンおよび変速機は、アルファ・ロメオのものを使用することとした。当時の日産資料によると、イタリア国産化比率は生産立ち上がり当初から80%に達した。アヴェリーノ工場で車体、座席、ワイヤーハーネスの組み立てを行ったあと、アルファ・ロメオの既存生産拠点であるポミリアーノ・ダルコ工場で、塗装と最終組み立て、というプロセスだった。1983年7月にラインオフ。同年9月のフランクフルト・ショーで披露された。
最初から罵声
当日は評論家、デザイン専門家そしてコレクターが、アルナに関する自身の研究や知識を披露した。司会を務めた俳優ダヴィデ・ダ・フィデル氏が世界の終末を示すハルマゲドンに掛けて「アルナゲドン!」と紹介したように、イタリア人のアルナに対する反応は当初から冷ややかだった。
83年10月に南部タオルミーナ海岸で企画されたジャーナリスト及び販売店向け向け試乗会では、車両の披露直後「海に捨てろ!」と罵声が飛んだという。エクステリア・デザインをはじめ、その雰囲気が従来のアルファ・ロメオからあまりに乖離していたのである。
「ローンは柔軟。支払い開始は3カ月後。月額27万リラ(当時の換算で約4万円)」といったアピールのあと、「Sei subito Alfista(キミも今すぐアルフィスタ)」で締めるテレビCM戦略は、高級車時代のアルファ・ロメオを知る従来ファンの神経を逆撫でした。「アルナルド」と名づけられたヒョウのマスコットも、既存のブランドイメージからするとあまりに唐突だった。
純粋日本車の製造品質にも到底及ばなかった。最終的にアルナは、アルファ・ロメオがフィアットに買収された1986年に販売を終了。累計生産台数は5万3千台だった。目標の年産6万台には程遠い数字だった。
筆者のマクロ的視点で付け加えるなら、アルナが送り出された時代のイタリアは、国内産業自体が自信を喪失していた時期であった。それを証明する一例は、戦後この国を代表する事務機器ブランド、オリベッティだ。1950-70年代には斬新なデザインのタイプライターや計算機を世に送り出した彼らだが、コンピューターの時代になるとIBMをはじめとする米国企業の猛攻を受けた。その結果、奇しくもアルナと同年である1983年に発売したオリベッティ製パーソナルコンピューターは、日本の京セラのOEMに過ぎなかった。
一般イタリア人ユーザーの日本車に対する認識が今日とは明らかに異なっていたことも忘れてはならないだろう。当時、日本製品といえば、デザイン的にもエンジニアリング的にも欧米製の模倣という印象が流布していた。筆者がイタリアに住み始めた1990年代末でさえ、(実際は登場順が逆であるにもかかわらず)スバルの水平対向4気筒エンジンは、アルファスッド用のコピーであると固く信じている自動車ファンは少なくなかった。
また、イベント会場で筆者が自動車を撮影取材していると、知らない人々から「今度は何をコピーしに来たんだ」とからかわれた。アルナ登場は、それよりも十数年前である。“半分日本”のアルナを見る目にバイアスがかかっていたことは容易に想像できる。不幸な時代に生まれてしまったのである。
目利きたちが再評価
今回のトークショーではアルナの美点も挙げられた。たとえばパルサー/ラングレー譲りの広い室内とアルファスッドのフラット4による低重心だ。元F1選手・故クレイ・レガッツォーニの娘アレッシア氏は、自身も事故で車椅子を強いられていた父が、ドライビングスクールに身障者仕様のアルナを導入したことを説明。従来サーキット走行を諦めていた人たちに門戸を開くきっかけとなったと回顧した。
アルナに関する著書があるデザイン評論家マッテオ・リカータ氏は、当時「コリアスコ」というカロッツェリアが、アルナを基にしたカブリオレ、クーペそしてワゴンを計画していたことを解説した。同社はすでに存在しないが、アルナはプロに“もう少しリファインすれば、ものになる”と思わせるものがあったのだ。
日産はアルナで得た数々の教訓をイギリス現地生産に活かし、同工場製の2代目「マイクラ(マーチ)」で成功。日本車初の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。
当日博物館の駐車場には、ファンが乗りつけたアルナが並んだ。エリザベッタ・コッツィ館長によると、その日の定員約100名は、早くから満員御礼となったという。
欧州屈指のアルファ収集家アクセル・マルクス氏も、アルナのスイス限定仕様「ジュビリー」とともにやってきた。「道端のウインドウに映るたび、アルナと自分に絶望」しながらも「渋滞では今日の車以上に機敏です」と愛憎劇を語り、会場を沸かせた。加えて、外科医として勤務している病院で駐車場が「(高級車ばかりの)モーターショー状態」であることに違和感を覚え、敢えてアルナで通勤していた時期があったことも明かした。本人流のミニマリズムだ。
かつて“最も醜い”といわれたクルマが時を経て今、再評価されようとしている。だからクルマの歴史は面白い。
記事の画像ギャラリーを見る