技術でレースを席巻、510ブルーバード
「ダットサン ブルーバード 510 型」4ドアセダン/5人乗り 1967〜72年 全長×全幅×全高:4120×1560×1400mm 車両重量:915kg エンジン:直4 OHC 1595cc 出力:100ps/6000rpm 駆動輪:後輪 サスペンション:前ストラット、後セミトレーリング 最小回転半径:4.8m(スペックは1600 SSS)
世界のラリーを席巻した、510ブルーバード
映画「栄光への5000キロ」を覚えておられる方もいるだろう。1970年代は石原プロが壮大なサファリを舞台にラリー映画を作るほど、日本中がラリーに熱をあげていた。なにしろ「ダットサン ブルーバード 510型(通称510ブル)」はアクロポリス、サザンクロス、バサーストと勝ち進み、70年には最高峰のサファリでクラス、総合など3タイトルを獲得。世界のラリーを総なめにしたのだ。
それだけではない。アメリカではBMWやアルファロメオを相手に、SCCAレースで全米選手権のチャンピオンに2回( 71、72年)も輝いた。当時アメリカでは、日産はダットサンブランドを展開していたが、レースで優勝すると、翌日にはディーラーに人が押し寄せ、車が売れまくったという。
一方、日本では、先進的な設計のブルーバードと、旧態依然としたリジットアクスルながらデラックスな装備を売りにしたトヨペット・コロナが販売台数を競い合い、俗に言う「BC戦争」が巻き起こっていた。
510ブルは新技術を投入し、エンジンやシャーシを含め、全てが新設計だった。他車がまだ鉄ヘッドのOHVのなか、アルミヘッドのOHCエンジンは、1300㏄や「SSS(スーパースポーツセダン)」はツインキャブの1600㏄をラインナップ。SSSでは100psを発揮し、165㎞/hの最高速を誇ったのだ。
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当時のブルーバードは見ても乗っても最新だった
見ても乗っても最新だったブルーバード
ブレーキはディスクを前輪に採用。サスペンションは日産初の四輪独立懸架で、フロントはストラット、リアはセミトレーリング。それまでのリジットアクスルに比べると操安性能、乗り心地ともに群を抜いて良かった。(関連記事)
デザインは、これらの先進技術を表現した前衛的な”スーパーソニックライン”というもの。フロントウインドーを大きく傾け、三角窓を持たない画期的なものだ。私は、510はサスペンションの方式も、OHCエンジンを斜めにしたことも、当時のBMWを範にしたのではないかと思っている。
DATSUNの名称は、日産自動車の前身のひとつである「快進社」(11年)の支援メンバーであった田健次郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字と、脱兎のごとく走ることに掛け、「脱兎号(DAT CAR)」としたことに始まる。後に「DAT」の息子の意からDATSONとした。ところが「SON」は損に繋がることから「SUN」とし、DATSUNに改名したという。その後(33年)、政府方針でダット自動車、石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業の3社が合併し、日本産業系列に「自動車製造会社」が創設され、翌年「日産自動車」に改名した。ちなみにプリンス自動車との合併は、66年のことだ。(関連記事)
前述の一連のレース活動によって、ダットサンの名前は、全米に轟き渡った。その最中に日産の石原社長(当時)がアメリカを訪れ、名刺を出したところ、「ニッサンはダットサンの子会社ですか?」と聞かれたというのだ。この一言に社長は、かなり立腹したようで、80年代に数百億円をかけて、全米の表示をDATSUNからNISSANに切り替えたという。
ところが北米で近々、このダットサンの名前を復活させるのだそうだ。ダットサンという言葉には、あらゆる自動車ブランドを超越したなんとも言えぬ響きがあり、いまだに世界中の人々から親しまれている。それがここに来て復活するのは嬉しい限りだ。
文=立花啓毅
1942年生まれ。ブリヂストンサイクル工業を経て、68年東洋工業(現マツダ)入社。在籍時は初代FFファミリアや初代FFカペラ、2代目RXー7やユーノス・ロードスターといった幾多の名車を開発。
(この記事はJAFMateNeo2014年8,9月号掲載「哲学車」を再構成したものです。記事内容は公開当時のものです)