【自動車なぜなに?】最初は「DATSON」だった!?日産の歴史を徹底調査。
日産初期の量産車「ダットサン14型ロードスター」。1935年に、日産が横浜に新設した工場で初めて本格的な量産を行った車種である。当時は、年産1万台を目標とした。全長2790×全幅1190mm(全高は未公表)。ホイールベースは2005mm、トレッドは前990/後1026mm。車両重量550kg。直列4気筒・排気量722ccの7型エンジンを搭載。最高出力は15ps(11kW)/3600rpm。最大トルクは未公表。
国内では、創業期から1970年代まで主に小型車の車名・ブランド名として使われていた日産の「DATSUN(ダットサン)」。北米など海外市場でもブランド名として使用されており、例えば1970年に初代S30系の「フェアレディZ」が輸出された際は「DATSUN 204Z」と呼ばれた。
その後、1981年にグローバル戦略として日産に統一することにしたため(現在は、高級車ブランドとして「Infinity」も世界的に使用されている)、DATSUNのブランド名は使われなくなったが、2012年に約30年ぶりに復活。
今回は新興国で販売されるクルマにのみ使われることになり、現在はインド、インドネシア、ロシア、南アフリカの4市場に投入されている「GO」や「GO+」などにDATSUNブランドを冠されている。
ちなみに英語圏では「ダットサン」とは発音せず、「ダッツン」と呼ばれる。
DATSUNにはどんな意味が込められている?
さてこのDATSUNだが、そもそもどういう意味なのだろうか? それを知るには、日産のルーツを遡る必要がある。日産は、1933(昭和8)年に自動車製造株式会社として設立され、翌年に日産自動車株式会社と社名変更して現在に至る(1944(昭和19)年9月から1949(昭和24)年8月までは日産重工業株式会社)。
しかし自動車開発という観点からいえば、橋本増治郎(はしもと・ますじろう)が中心となって、自動車の国産化を目指して1911(明治44年)に東京に設立した快進社自動車工場がその起点といわれる。橋本らは、1914(大正3)年にV型2気筒のエンジンを搭載したオリジナルの「DAT自動車(脱兎号)」の開発に成功する。DATSUNの”DAT”はそこまで遡るのだ。
では、DATとはどういう意味なのかというと、この自動車開発で橋本らに出資した田健次郎(でん・けんじろう)、青山禄郎(あおやま・ろくろう)、竹内明太郎(たけうち・めいたろう)に敬意を込めた、3人の頭文字なのだ。
また、耐久性のある(Durable)、魅力的で(Attractive)、信頼できる(Trustworthy)という意味もあるという。さらにいえば、速さをイメージできる脱兎にも引っかけてあると伝えられている。
DATSUNの”SUN”は最初は”SON”だった!?
そしてDATSUNの後ろ半分の”SUN”に関しては、今度は少しだけ日産の歴史を進める必要がある。
快進社自動車工場はまず、1918(大正7)年に株式会社化して株式会社快進社となるが、1925(大正14)年には経営不振から販売強化のために合資会社の「ダット自動車商会」となる。もちろん、この”ダット”とは、DATのことだ。
同時期の1919(大正8)年に大阪の実業家によって設立された自動車メーカーが、アメリカ人技師のウィリアム・ゴルハムの指導を受けた三輪自動車「ゴルハム号」の製造を目的とした実用自動車製造だ。この実用自動車製造も経営がうまくいかなかったことから、快進社と1926年に合併。そしてダット自動車製造株式会社が誕生することになる。
1931(昭和6)年になって、ダット自動車製造は495ccの小型乗車「10型」の生産(量産型)車両の第1号を完成させることに成功する。これは、DATの息子ということで、「DATSON(ダットソン)」と命名された。
しかし、”SON”は”損”につながるということで、1932(昭和7)年になってから太陽を意味する”SUN”に改められ、ここに「DATSUN」の車名・ブランド名が誕生したのである。
ダット自動車製造は日産自動車の直接的な前身ではない?
「ダットサン12型フェートン」。フェートンとは、折りたたみ式幌を有する4人乗りオープンカーのこと。日産が創業した1933年12月に製造していた、同社最古のモデル。全長2770×全幅1190mm、全高は未公表。ホイールベースは1980mm、トレッドは前980/後1016mm、車両重量は500kg。エンジンは水冷直列4気筒、排気量748cc。最高出力は12ps(9kW)/3000rpm。最大トルクは未公表。
なお、1931年の「10型」の生産第1号車の完成からDATSUNの名が生まれる間に、ダット自動車製造は大きく運命が変わることになる。
「10型」の量産のために資金を必要としたことから、自動車部品を製造していた北九州の戸畑鋳物に対し、資金を得る代わりに経営権を譲渡。戸畑鋳物の傘下となったのである。そのため、ダット自動車製造も日産自動車の前身といえるが、戸畑鋳物こそが「日産の前身」、「日産のルーツは北九州」などといわれるのである(戸畑鋳物は日立金属の前身でもある)。
さらに付け加えれば、「日産」の社名もこの戸畑鋳物と大きく関係している。戸畑鋳物を設立した鮎川義介(あゆかわ・よしすけ)は、傘下に収めた久原鉱業(くはらこうぎょう)を日本産業と改名。鮎川は多くの企業を買収して「日産コンツェルン」を形成するに至る。日産自動車の日産はこの日本産業を意味するのである。
戦時下における複雑な自動車業界の再編
複雑だったのは、この戦時下において軍用車両を製造していた東京瓦斯電気工業(とうきょうがすでんきこうぎょう、通称・瓦斯電)、石川島自動車製作所(石川島造船所自動車部門が1929(昭和4)年に独立し、後に瓦斯電などを吸収していすゞ自動車となる)、ダット自動車製造の3社に対し、陸軍が軍用車両の生産規模の拡大や調達先の一本化などを目的として統合を検討したこと。
そのため、戸畑鋳物はダット自動車の資産のすべてを傘下に収めることはできなかった。石川島自動車製作所がダット自動車を吸収しており、戸畑鋳物は軍用車両とは関係のない小型乗用車の工場を入手した形だ。ただし、小型乗用車の製造権も石川島自動車製作所がダット自動車から譲渡されていたため、戸畑鋳物は石川島自動車製作所から譲り受けることとなる。
実際にダット自動車製造が閉鎖されたのは1933(昭和8)年のことで、鮎川はダット自動車製造の工場を入手すると、それを中核に戸畑鋳物自動車部を設立。そして小型乗用車の本格的な量産を開始するのである。
日産自動車の誕生
そして同年の暮れも押し迫った12月26日に、鮎川は日本産業と戸畑鋳物に共同出資させる形で戸畑鋳物自動車部を独立させて自動車製造株式会社を横浜に設立。現在でも日産がグローバル本社を横浜に構えている理由のひとつはそこにある。
さらに翌1934年になって、コンツェルンの自動車製造企業であることを知らしめる目的と思われるが、日産自動車株式会社に改称して現在に至るのである。
余談ではあるが、日産コンツェルンは戦後に解体されたあと、ほかの財閥のように再統合することはなかった。そのため、現在では日産の名を冠した企業の中では日産自動車が世界規模の大企業として最も知られており、日産といえば日産自動車を指すようになったというわけだ。
日産は鮎川のもの・DATSUNは橋本のもの
また日産自動車でDATSUNの名がそのまま使われたのは、ダット自動車製造で開発された小型乗用車を引き継ぐ形で生産を続けたことに理由がある。結果として、日産は鮎川が立ち上げた会社だが、日産のクルマ造りの基礎を築いたのが橋本である証として、DATSUNのブランド名は後世に伝えられるのである。
国産車製造の黎明期において、DATSUNの名は小型車と同義語となるほど知名度を博し、さらにはそこから小型、小柄を意味する言葉として使われるようにもなっていった。例えば、当時は小柄な芸者のことを”ダットサン芸者”と呼んだという。
また、現在のDATSUNの”DAT”の解釈は、夢(Dream)、アクセス(Access)、信頼(Trust)と改められていることも付け加えておく。
2017年11月17日(JAFメディアワークス IT Media部 日高 保)