ベレット(ベレG)、117クーペ、ジェミニ、ピアッツァ。いすゞの往年の乗用車を集めてみた!
国内においては2002年に乗用車市場から撤退したいすゞだが、今もって人気車種も多い。 ここでは複数の旧車系イベントで見かけた、「ベレット」シリーズ、「117クーペ」、「ジェミニ」、「ピアッツァ」のいすゞ車4車種を紹介する。
国内の乗用車市場からは完全撤退してしまったいすゞだが、現在でも海外では乗用車の製造・販売を続けている。これはその1車種で、タイで生産されている「mu-x」(ミューエックス)。同じくタイで生産されているピックアップトラック「D-MAX」をベースとしてる。外見はSUVだが、駆動方式は2WDで、パッセンジャーピックアップビークルという目的の車種。
現在では、トラックやバスなどの商用車メーカーとして知られるが、かつては乗用車も手がけ、数々の名車を送り出してきたメーカーとして知られているいすゞ。前身の東京石川島造船所が自動車製造に進出した1916年を、同社の創業としている。
その後、英ウーズレー社と技術提携を結び、1922年にはトラック「A9型」の国産第1号を完成させ、自動車の生産をスタート。1929年に自動車製造部門が独立して石川島自動車製造所となり、1933年にはダット自動車製造を吸収した。1937年4月9日に東京瓦斯電気工業(とうきょうがすでんきこうぎょう)と合併し、社名を東京自動車工業に。これが現在のいすゞの企業としてのスタートであり、創業記念日は、創業日とは異なりこちらの日となっている。
「いすゞ自動車株式会社」への社名変更は1949年のこと。その由来は、1934年には商工省(現・経済産業省)が掲げた標準形式自動車を開発し、三重県・伊勢神宮の近くを流れる五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名したことから、それが社名にも採用された。
その後、いすゞは1960年代から1980年代にかけて、自動車史に名を残す乗用車を生産。国内では2002年で乗用車の製造から完全撤退(海外では現在も乗用車の製造・販売を行っている)してしまったが、「ベレット」や「117クーペ」、「ジェミニ」、「ピアッツァ」など、今なお愛好家が多い。今回は、それらを紹介する。
いすゞの大型トラック「ギガ」。現在はトラックなどやバスなどの商用車メーカーだが、かつては乗用車も手がけていた。「ジャパントラックショー2018」のいすゞブースにて撮影。
日本初のGTカーが設定された「ベレット」
「ベレット1600GT」。年式は不明。「ベレG」こと「ベレット1600GT」は「ベレット」を語る上で外せない、日本初のグランツーリスモ(グランドツーリングカー)とされる1台。1964年4月に発表され、1万7439台が生産された。「お台場旧車天国2017」にて撮影。「ベレット1600GT」のパレード走行を収めた動画は、別記事『【トヨタ博物館 クラシックカー・フェス 2018】(4)1960年代後編は、ホンダ「S800」やいすゞ「ベレット 1600GT」など国産の名車を集めてみた!』に収録した。
いすゞは戦後になると、1953年に「ヒルマン」、1961年に「ベレル」を発売。そして1963年に発売されたのが、「ベレット」だ。その名称は小さい「ベレル」という意味が持たせられており、可愛い「ベレル」の妹というつもりで命名されたという。ちなみに「ベレル」とは、ベルが50個(ローマ数字の50はL)=五十鈴(いすゞ)という意味。
「ベレット」はセパレート・シートや4段フロアシフトなどを採用し、さらに同クラスの国産車では初となる4輪独立懸架方式のサスペンションも採用。当時の国産車としては先進的な設計を採り入れた1台だった。またエクステリアには「オーバルライン」というスタイリングを採用し、ヨーロッパ志向も特徴だった。
当時、日本の自動車市場は商用車から自家用車へとシフトしつつある時期。いすゞはマイカー時代の到来を予見し、自家用車層にターゲットを絞って「ベレット」を開発した。内外装、エンジン、トランスミッションなどを自由に組み合わせて、ユーザーが自分だけの1台を作れるという当時としては新しい仕組みを採用していたことも特徴だった。
「ベレット」は1963年6月から1973年9月までの10年4か月で、全グレード合計で17万737台が生産された。「ベレット1600GT」については、自動車ライター下野康史さんの連載記事「ぼくは、車と生きてきた」の『いすゞ・ベレットGT』に詳しい。
「ベレット1600GTファストバック」1969年式。通常の「1600GT」とは後部のラインが異なり、ファストバック仕様。ファストバックとはクーペのスタイルのひとつであり、ルーフからテールへのラインが連続的となっているのが特徴。「ベレット1600GTファストバック」は受注生産だったため、数が少ない。「トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑 2017」にて撮影。
排気量が最も大きい「ベレット1800GT」1972年式。「お台場旧車天国2017」にて撮影。
「ベレット1500デラックス」。展示車両はボルグワーナー製3速AT仕様というレアな1台で、2018年現在、自走可能なのはこの1台だけだという。「オートモビルカウンシル2018」にて撮影。
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続いては、名車「117クーペ」!
巨匠ジウジアーロがデザインを手がけた「117クーペ」
PA95型「117クーペ」。排気量1800cc、水冷直列4気筒SOHCエンジンを搭載した中期のモデルで、「量産丸目」の愛称で呼ばれた。従来の国産車とは一線を画したその流麗なデザインに自信を持っていたいすゞは、1969年の広告のキャッチコピーを「いすゞは無個性な車をつくらない」としたという。「トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑 2018」にて撮影。
自家用車の生産台数が商用車を追い抜き、マイカー時代が本格的に始まったとされるのが1968年である。その年に、いすゞからデビューしたのが名車「117クーペ」だ。その車名は、開発コードナンバーがそのまま用いられた。
「117クーペ」が名車といわれる理由は、そのエレガントさとスポーティさを兼ね備えたデザインによるところが大きい。デザインを手がけたのが、当時はギア社に所属していたイタリア人インダストリアルデザイナーの巨匠ジョルジェット・ジウジアーロだ。欧州車風の香りがするデザインは、ジウジアーロによるものなのである。
当時の国産車のデザインは、残念ながら明らかに欧米から後れをとっていた。しかしそこに登場した「117クーペ」は、フロント、サイド、リアのどこを見ても国産車とは思えないデザインをしており、多くの人々を魅了。1966年3月のジュネーブショーでコンセプトカー「ギア/いすゞ117スポルト」として発表され、そのときはコンクール・ド・エレガンスで優勝した。自動車先進国の欧米でも評価された、世界水準のデザインだったのである。
また、国産車として初めて燃料噴射装置に電子制御を導入したグレードを用意したことでも知られる(電子制御方式のグレードは車両型式の末尾に「e」がついた)。デザイン、機構共に先進的な1台として、長らくいすゞの乗用車のフラッグシップモデルとして活躍し、1968年7月から1981年4月までの12年10か月で8万6192台が生産された。
「117クーペ」を側面から。2ドアクーペだが、ふたり掛けの後席が用意されているため、4人乗車が可能。
「117クーペ」のリアビュー。ルーフからテールまで連続したラインであることから、ファストバックスタイルであることがわかる。
「117クーペ 2000XG」1979年式。上で紹介したPA95型とはヘッドランプの数は同じ4灯だが、形状が異なり角目となっている。ちなみにフロントにあるエンブレムは唐獅子。ジウジアーロが日本車ということで選び、日本側でデザインをモデファイした。そしてエンジンの排気量はこの2000ccのほか、上のPA95型の1800ccに加え、1600ccもあった。「トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑 2017」にて撮影。
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次はいすゞ史上最も売れた乗用車「ジェミニ」!
GMと提携していすゞが世界展開した「ジェミニ」
いすゞは日本、米国、欧州のどこにでも同じクルマを作り、ワールドカーとして展開していくことを目指し、1971年にGMと提携を行う。1974年、ワールドカー構想「Tカー」シリーズの最初の小型乗用車として誕生したのが、初代「ジェミニ」だ。その社名は、いすゞとGMとの共同開発にちなんで命名された。また、いすゞとユーザーが信頼で結ばれることを願った意味も込められている。
そして「ジェミニ」には、いすゞが得意とするディーゼルエンジン搭載車もラインナップされた(「ベレット」にもディーゼルエンジン搭載グレードが設定されていた)。いすゞがディーゼルエンジンに強いとされるのは、クルマ用としては世界的にも早い1936年の時点で開発に成功した経緯があるからだ。
2008年に経済産業省によって近代化産業遺産に登録された、ディーゼルエンジン「DA4型」。排気量5321ccの空冷直列4気筒で、最高出力は62ps/2000rpm、最大トルクは26kg-m/1200rpm。試作車の「94式6輪自動貨車」に搭載された。「人とくるまのテクノロジー展 2018」のいすゞ・ブースにて撮影。
1970年代後半に入るとオイルショックの影響を受けて世界的に省エネ指向となっていった時代背景を受け、いすゞは「80年代のディーゼル乗用車」の開発を目指す。そして、排気量1817cc・直列4気筒の「Q-D1800型」エンジンを搭載し、1979年11月に「ジェミニ・ディーゼル」が発売されたのである。
「Q-D1800型」エンジンは最高出力は61ps/5000rpm、最大トルク11.2kg-m/2000rpm、時速60km定地走行で燃費はリッター29kmというガソリン車に引けを取らない性能と高い経済性を備えていた。これにより、「ジェミニ」はディーゼル乗用車の顔ともいうべき1台となったのである。
そして、「ジェミニ」は1985年になってフルモデルチェンジした2代目も忘れられない。FRからFFへと駆動方式を大きく変更したことから「FFジェミニ」の愛称で呼ばれた2代目は、パリの街中を超絶的なカースタントで駆け抜けるTVCMで知られる。「街の遊撃手」のキャッチコピーも手伝い、2代目は当時のFF車を代表する存在となった。
1974年7月から1993年7月まで3代にわたって、トータルで192万3378台が生産された(4~5代目はホンダからOEM供給を受けているため、カウントしていない)。「ジェミニ」については、連載記事「ぼくは、車と生きてきた」の「いすゞ・ジェミニ」に詳しい。
「ジェミニ」1982年式。通常はヘッドランプは2灯だが、展示車は丸目2灯がラリーカーのように追加されていた。「トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑 2017」にて撮影。
スポーツモデルの「ジェミニ ZZR」1983年式。フロントフェイスが上の1982年式と異なる。「お台場旧車天国2018」にて撮影。
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最後は未来派の「ピアッツァ」!
再びジウジアーロとコラボレーションした「ピアッツァ」
発表は「117クーペ」と同様にジュネーブショーで、1979年のこと。ギアから独立してイタルデザインを設立していたジウジアーロが、再びデザインを担当した。ジュネーブショーで展示されたプロトタイプの車名は「アッソ・ディ・フィオーリ」(「クラブのエース」の意味)。そして1981年に「ピアッツァ」として量産化されたのである。
「ピアッツァ」とはイタリア語で「広場」を意味する。そこに込められた意味は、「ピアッツァ」が持つ広がりのある価値が、80年代のクルマ社会を先導する広場となるように、というもの。ちなみに「NERO(ネーロ)」というサブネームをつけられたグレードがあったが、こちらはイタリア語で「黒」の意味。高級・スポーツモデルだった。1981年4月から1990年2月までの8年11か月で、11万3419台が生産された(2代目については公式資料がないため含めていない)。
「ピアッツァ」については、自動車ライター下野康史さんによる連載記事「ぼくは、車と生きてきた」の『いすゞ・ピアッツァ(初代)』に詳しい。
「ピアッツァ ターボXE」1984年式。「ピアッツァ」は未来的なスタイリングが特徴だが、インパネも未来的で、当時としては珍しいデジタル式だった。ステアリングから手を離さずに操作できる「サテライト・スイッチ」も当時としては新しかった。お台場旧車天国2017」にて撮影。
「ピアッツァ」1987年式。上の1984年式とはヘッドランプの形状が異なる。「お台場旧車天国2018」にて撮影。
「ピアッツァ」1987年式。上の青い1987年式と年式こそ同じだが、ヘッドランプが大きく異なり、リトラクタブル方式となっている。「お台場旧車天国2018」にて撮影。
「ピアッツァ XS NERO5」1986年式。インテリアが青で、ヤナセから100台限定で販売された1台。当時、販路の拡大のためにヤナセでも「ピアッツァ」は販売されていた。排気量をアップさせるなど、オーナーが大きく手を入れている。「お台場旧車天国2018」にて撮影。
「ピアッツァ ハンドリング・バイ・ロータス」1990年式。いすゞはロータスと提携し、「ピアッツァ」に関しては「ハンドリング・バイ・ロータス」というスペシャルバージョンが後期に登場した。BBSホイールや、MOMOのステアリングなど、オリジナルのままという1台。「お台場旧車天国2018」にて撮影。
2018年12月27日(JAFメディアワークス IT Media部 日高 保)