皆の衆9(5月号) 近江八幡のお話
全国各地の「ニッポンの皆の衆」の物語。第9回は、滋賀県の南東部・近江八幡が舞台だ。
近江八幡は、古い町並みやお堀が残る静かな景勝地だ。古くは琵琶湖の海運を活かした商業貿易で栄えた街で、その土壌が独特の気質や才覚を生み、「近江商人」と呼ばれる優秀な経営者を全国に送り出した。
近江商人は、大坂商人、伊勢商人と並ぶ三大商人である。「近江商人」の流れを汲む会社や経営者は枚挙に暇がないが、あの世界のトヨタもまた、そのゆかりのものである(初代社長が彦根出身)。
近江商人の真髄は、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」。
アメリカ産自己啓発ワード「WIN-WIN」の先輩格とも言える「商人訓」が、いまでも大事にされている。
近江八幡が生み出したものは、「近江商人」だけではない。それを探っていくと、この街のふたりの人物が浮き上がってくる。
「頭の欠けた富士」
フォークの神様と言われた男がいた。岡林信康(敬称略)である。岡林は、著書のなかで、生まれ育った近江八幡の街で、「50年先の日本」を体験したと語っていた。(『岡林、信康を語る』、ディスクユニオン刊)
その土壌を作ったのは、在日アメリカ人牧師で建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズである。
地元アメリカのカンザス州で「キリスト教的博愛人道主義」を学んだヴォーリズは、布教活動のため、はるばる日本にやってきた。
サンフランシスコからの船のデッキの上で、ヴォーリズは富士山を見た。彼は深い感動を覚えた。また、同時にそこにある「頭の欠けた」円錐形の姿に、東洋の不完全さの象徴を見出した。(『ヴォーリズ評伝』奥村直彦著、港の人)
慣れない異国での手探りの生活の末、スキンケア用の軟膏として当時の米国で知られていた、「メンソレータム」の販売権を取得、この地に輸入販売のための近江兄弟社を設立した。
メンソレータムは瞬く間に人気となり、国内生産を開始。家庭の常備薬として、また、戦時中には、慰問袋用の携行品として、長年に渡り多くの日本人に親しまれてきた。
もちろん、昭和の世、平成の世でも人気だ。擦り傷切り傷のみならず、風邪や喘息などで苦しんだか弱き幼少の頃。ママやオカンがパジャマの上着を開けた胸元へ、メンソレータムをやさしく塗りこんでくれた。そんな淡い思い出に涙する同志たちも多いことだろう。
その後、ヴォーリズは、建築家としても日本に貢献し、日本基督教団大阪教会、関西学院大学、大丸百貨店大阪心斎橋店、神戸女学院、山の上ホテルなど、多くの建築物を残した。
また、地元に彼の考えを根付かせるための教育機関として「近江兄弟社学園」を設立。岡林信康は、その学校の約50年前の卒業生である。
当時の近江兄弟社学園は土日が休み。もちろん、日曜は教会の礼拝である。古い城下町である近江八幡に、突然、きらびやかな「西洋の館」が登場した。街は「東洋と西洋のごった煮」(『岡林、信康を語る』)となり、その環境のなかで、岡林は賛美歌に触れ、創始者であるヴォーリズの視点で日本を見た。
個人の自立と地域の因習的連携の緩やかな崩壊。子供心に感じていたそんな街の様子を評したのが、冒頭の「50年先の日本」である。 ヴォーリズは音楽を愛した。彼はハモンドオルガンを日本に伝えた。ヴォーリズにとっての賛美歌は、生涯に渡る霊的原動力になった。
岡林もまた賛美歌を聞いて育ち、賛美歌に影響を受けた。岡林はアメリカン・フォークのゴッド・ファーザー、ボブ・ディランを追いかけ、心の底から共感した。
「でも、(中略)俺が追いかけてたのはディランじゃなくて賛美歌だった」と、岡林は後年のインタビューで語った。
「ちょうど真の芸術家が目先の利益のための安物の作品をつくらないように、真の商人もまた儲けの近道とばかりに暴利を得ようとせず、恒久的な社会奉仕の道具となるようにビジネスの基礎を築くべきである」。
これは、「ビジネスとは隣人との取引を内容とする社会制度である」という考え方から来る、ヴォーリズの主張である。(『青い目の近江商人 ヴォーリズ外伝』(岩原侑著、文芸社)
ときに人々から、その考え方は宗教の戒律であって経済の原理ではないと批判された。だが、「神の大きな計画」に導かれたと悟るヴォーリズの主張は、けっしてぶれることはなかった。
建築において、事業において、教育において。「近江ミッション」と枠付けされた彼の考え方は、紆余曲折がありながらも、この地に確実に浸透していった。
(注) 現在、メンソレータムは、ロート製薬(株)の商標で、同社が製造販売を行っています。
(注) 2015年4月に、学校法人近江兄弟社学園は、法人名を「学校法人ヴォーリズ学園」に変更しています。
「醜いままで十分にきれいだっていうこと」
宗教的信仰心はともかく、岡林もじゅうぶんにこの考えの影響は受けたと言えよう。
フォークの神様として一躍名を上げた岡林信康は、その後、田舎へと移り住み、自らの立ち位置と自らの音楽を探し回るように「転身」を繰り返した。身の回りに染み付いた政治信条を振り払いながら歌謡ポップスを歌い、演歌を歌い、美空ひばりと話し、江州音頭(近江国の伝統音楽)に入れ込み、そして、究極的ニッポンのロック「エンヤトット」にたどり着く。
そして、ときには美しいフォーク・ミュージックに戻り、自らの身軽さを愛おしむ。
岡林は、前出の著書のなかに、こんな素敵な言葉を残してる(一部略)。
「お月さんってすごくきれいだろ、夜空に浮かんで輝いて。でも月そのものはデコボコで、ものすごく汚いんだよ。月自体に発光する力がない。あれは太陽の光が反射してきれいに輝いて見えている。
俺は弱くて醜いけれど、俺は強くて美しいということ。月は醜く汚いけれど、夜空に輝く月ほど美しいものはない。醜いままで十分にきれいだっていうこと。
訓練して自分を直して、美しく輝くんじゃなくて、このままでも輝けるんだ。俺たちは月と一緒で、汚いままできれいに輝けるはずなんだ。
人間にとっての、自分にとっての太陽の光とはなんなのかってこと。俺は長い田舎暮らしや畑仕事の中で、見えざる自然の力や生命力やエネルギー、本能といったものを感じて、それを自分の中にイメージしてるんだけどね。俺の力で生きるんじゃなくて、それによって生かされてるという感じかな。
俺にとっての太陽の光は歌だった。歌に出会うことによって、引きこもりの自閉症的人間のままでこうしてここまで生かされてきたとも言えるんだから」。
その日、近江八幡のお堀に写った月は、大きくてきれいだった。まるでメンソレータムみたいに、胸に染みる話だ。