国道289号は酷道から国道へ? 事業化から半世紀、八十里越はつながるか。
新潟県三条市と福島県南会津郡只見町を結ぶ国道289号の「八十里越」は、越後と南会津の経済・物流・人流をつなぐ峠道であったが、あまりにも険しい酷道でもあった。その後、歴史に葬り去られたこの道は、国道289号として車両の通行できる道路に整備されることになった。しかし、事業化から半世紀が経過するも、開通の発表を耳にすることはない。この道路はつながるのか?
道路マニアのあこがれの地「八十里越」とは?
現在の新潟県三条市と福島県南会津郡只見町を結ぶ「八十里越(はちじゅうりごえ)」は、実際は八里(約32km)なのに、一里が十里もあるように感じられるくらい険しい道であったという。
越後の人々と南会津の人々は、この八十里越を往来し交流していた。越後から南会津には、塩、魚、馬など、南会津から越後には、麻苧、蚕種、生糸などを運び込んでいた。中越が大飢饉に見舞われたときには奥会津の村々で子どもたちを助けたり、南会津が凶作に見舞われたときには越後の米を運び込んだりなど、峠ひとつを隔てながら、互いに助け合っていた記録もあるようだ。
また、戊辰戦争で長岡藩と会津藩は幕府側として新政府側に対抗していたが、長岡城の落城で、長岡藩から会津藩まで、八十里越で3000人が敗走した。敗走の途中で生涯を終えた長岡藩総督の河井継之助は、「八十里こしぬけ武士の越す峠」という辞世の句を残している。なお、河合継之助の生涯を描いた司馬遼太郎の長編小説「峠」にも、この八十里越は登場する。
戊辰戦争以降も、越後と南会津の経済・物流・人流の結びつきは変わらず、交通量の増加と荷車の通行に対応するため、1881年(明治14年)にはそれまでの「古道」とはルートが異なる「中道」が開削された。しかし破損が相次ぎ、さらに1894年(明治27年)には「新道」が開削された。当時の福島県の発表によると、1900年(明治33年)の八十里越の通行人員は1万8500人/年、貨物輸出入数は5260個/年であった。
その後は、1914年(大正3年)に越後と南会津の鉄道(現磐越西線)が完成したこと、また1926年(大正15年)の大雨で八十里越が甚大な被害を受けた結果、輸送や移動の手段は鉄道に移行していった。1972年(昭和47年)には八十里越の新潟側の入口に位置する吉ヶ平の住人も集団離村したため、八十里越は整備も進まず、取り残される形となっていた。
国道289号「八十里越」は半世紀経っても工事中!?
新潟県新潟市を起点、福島県いわき市を終点とする国道に、1970年(昭和45年)に指定された国道289号(総延長280km)がある。まさに八十里越のルートであるが、現在は分断されている。
いま、八十里越に近いルートを国道で走るとしたら、新潟県魚沼市と福島県会津若松市を結ぶ国道252号だろうか。国道252号は鉄道の只見線に沿って走るルートだが、こちらも六十里越といわれる山岳部分は冬期閉鎖になるため、その間は鉄道利用か、自動車の場合は高速道路等を利用して迂回しなければならなくなる。
そこで国土交通省(建設省)・福島県・新潟県は、通年で通行できる道路として、国道289号八十里越の整備を進めることを決定、福島県施工区間は1973年(昭和48年)、国土交通省と新潟県施工区間は1986年(昭和61年)に事業化、国土交通省の施工区間は1989年(平成元年)に着工した。
国道289号 八十里越の路線は、古道、中道、新道、いずれとも異なり、安全で快適な自動車用山岳道路を築くため、橋梁20箇所、トンネル15箇所、さらにスノーシェッドやスノーシェルターなど、防雪施設を建設する大規模な道路事業計画として進められている。
しかし、日本有数の豪雪地で、冬期間は工事を中断せざるを得ないこともあり、工事は遅れているのが現状だ。2023年(令和3年)2月時点、八十里越区間20.8kmのうち19.1kmが通行不能である。
一方、多くの橋梁やトンネルは概成(完成しているが車両は通行できない状況)しており、開通に向けて一歩ずつ進んでいるともいえる。現時点で具体的な開通年月日は示されていないが、開通した暁には、日本有数の山岳道路として観光需要も高まるのではないだろうか。
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