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最終更新日:2020.05.11 公開日:2020.05.11

日本の自動車メーカーで歴史が古いのはどこ? 3つの基準で考えてみた

日本の自動車メーカーは、その歴史が100年を超える企業も少なくない。では、最も歴史の古い日本の自動車メーカーはどこなのだろうか?スタートの基準を何にするかで変わってくるため、複数の視点から歴史の長さをランキングし、同時に各社の歴史を振り返ってみた。

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いすゞの前身である石川島造船所(現・IHI)の自動車部が1924年(大正13)にノックダウン生産した英ウーズレー社製「CP型トラック」。

 日本の自動車メーカーのスタートは、製造業・重工業系の企業内に自動車部門が立ち上げられ、その部門が成長したり独立したりして自動車メーカーとなるパターンが多い。また、現在にいたるまで合併や吸収を繰り返し、複雑な歴史を持つ自動車メーカーも少なくない。そこで、国内の乗用車8メーカーと大型車4メーカーの歴史を調べて、日本一古い自動車メーカーについて考えてみた。

 とはいえ、何をもって古いというかは、何を基準にするかによって異なってくる。今回は3つの基準から調べてみたが、インターネットなどで公開されている資料を基にしていること、考え方によっても違いが出てきそうなこと、各メーカーに公式に確認したものではないので、それを前提に読んでほしい。

 まずは、これら12メーカーのスタートを簡単にまとめてみた。

【乗用車メーカー】
スズキ:織機メーカーから自動車メーカーへ
スバル:ルーツは航空機メーカー
ダイハツ:エンジンメーカーから自動車メーカーへ
トヨタ:織機メーカーから自動車部門が独立
日産:鋳造会社が自動車メーカーを傘下に入れて自動車メーカーへ
ホンダ:自動車メーカーとして設立
マツダ:コルクの製造業から自動車メーカーへ
三菱自動車:重工業から自動車部門が独立

【大型車メーカー】
いすゞ:重工業から独立した自動車部門をルーツに、自動車メーカーとして設立
日野:ガス・電気事業者をルーツに、いすゞと同じ自動車メーカーを経て独立
三菱ふそう:三菱から大型商用車部門として独立
UDトラックス:ルーツはトラックメーカー

 このようにスタートの仕方がそれぞれ異なるため、自動車メーカーの歴史といっても、どのタイミングからを自動車メーカーとするのかは、考え方によって変わってくる。そこで、会社の設立日順、親会社の一部門だった時代なども含めて四輪車の開発を始めた時期(自動車製造の創業)が早い順、そして現在の社名になって最も時間が経っている順と、3つの基準でランキングにしてみた。

 また今回の3つの年表を作成するにあたり、各社公式サイト内の会社概要や、歴史・沿革に関するページ、創立100周年時のニュースリリースなどを参照した。そのほか、自動車技術会が公開している歴史資料、日本自動車殿堂が公開している歴史車の解説資料、メーカーの所在地の行政機関が発行した歴史関連の公式資料、源流を同じくする別企業の沿革情報なども参照した。参照資料に関しては、最終ページ末尾に掲載した。

設立日順では100年オーバーが3社も

 まずは、その会社が会社概要などで公開している設立日順に見てみよう(表1)。ここでいう設立日とは、会社として設立登記の手続きが完了した日のことを指す。要は、そのメーカーが社会的に企業であることを認められた日だ。設立時点で自動車メーカーであるか否かは問わない。

 混同しやすいので説明しておくと、設立と似た意味の言葉として、「創業」と「創立」がある。創業とは個人・企業を問わず業務を始めるという意味だ。そして、創立とは企業を初めて設立することを意味する(設立は回数とは関係のない使われ方をする)。たとえば、個人で何らかの事業を始めたとしたら、そのときが創業。その後、それを会社組織化したら創立。その企業内に自動車部門を立ち上げ、それを新たな企業として独立させたら「子会社として自動車会社を設立した」などという使われ方をするのである。ただし、親会社から見た場合は子会社を設立となるが、子会社自身からしてみると創立ともいえる。そのため、企業によっては、設立日だったり創立日だったりと、表記が異なっている。また創立以来現在まで同一の企業として続いているのであれば、創立日=設立日となる。

 そういったことを踏まえた上で、設立日が古い順に順位をつけると、1~3位はダイハツ、マツダ、スズキであった。その歴史を紹介しよう。

表1。国内自動車メーカーの、設立日が最も古い順にランキング化してみた。最も古いのはダイハツだ。

※1 UDトラックスは、前身の民生デイゼル工業株式会社の設立日を、会社案内の沿革などでは1950年5月までとしか公表していない。

設立日の確認について:スズキ、ホンダ、UDトラックスは会社概要に掲載されていないため、以下の資料で確認した。スズキは、2020年3月15日発表のプレスリリース「スズキ、創立100周年を迎えて」にて。ホンダは、公式サイト内に1999年に開設された「語り継ぎたいこと~チャレンジの50年~」にて。UDトラックスは、同社会社案内の沿革にて。

第1位:113年という頭ひとつ抜き出た歴史を誇るダイハツ

 第1位は、1907年(明治40)3月1日に、発動機製造株式会社として設立されたダイハツだ。国内の自動車メーカーの中で唯一明治まで遡ることができ、2020年に設立113年を迎えた。ただし、当初は自動車の製造ではなく、エンジンの製造を目的として設立された企業だった。ダイハツの会社概要では同日に創立としているが、現在まで同一の企業として続いていることから、創立日=設立日となる。

 発動機製造の設立は、当時としては珍しい産学連携によってスタートしたという。この時期、エンジンは海外からの輸入に頼っており、それを国産化しようとしたのが、官立大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)校長の安永義章博士たちだ。その高い志に賛同した大阪の財界人たちの協力を得て設立されたのが、発動機製造だったのである。しかし高性能なエンジンを開発しても、当時は国産よりも海外製の方が優秀というイメージが圧倒的で、販売は苦戦が続くことに。それならと自ら車体も開発する道を選択し、1930年(昭和5)12月に誕生したのが、小型三輪車「HA型ダイハツ号」だ。このときが、ダイハツのモビリティ事業の創業である。

 また、発動機を製造しているメーカーが多かったことから、ユーザーは”大阪の発動機”という具合に地域名を入れて区別したという。それが略されてダイハツと呼ばれるようになり、発動機製造自身も20年後の1951年12月には改称し、ダイハツ工業株式会社とした。ユーザーにつけられた愛称を社名としたのである。そして画像1は1932年5月から発売された、後輪駆動に改良された「ツバサ号HD型」である。共同生産した日本エヤーブレーキ株式会社の意向で、「ダイハツ号」から「ツバサ号」に名称が変更されたという。また初の四輪車は1937年(昭和12)4月に発売された「FA型」だった。

画像1。ダイハツの三輪車「ツバサ号HD型」。このレストア車はタンクにダイハツとあるが、当時はタンクに「ツバサ號」とあった。

第2位:2020年が設立100周年にあたるマツダ

 第2位は、東洋コルク工業株式会社として出発したマツダだ。1920年(大正9)1月30日に設立され、2020年に100周年を迎えた。マツダの会社概要では同日に創立したとあるが、同社もひとつの企業として現在まで続いていることから、創立日=設立日となる。当初はコルク粒やコルク栓の生産を行っていたが、工場火災を起こした2年後の1927年(昭和2)に工場の再建を果たすと、同年9月には東洋工業株式会社と改称して機械やモビリティ製造事業に進出した。二輪車の開発から始め、1931年10月に初の三輪車「DA号」の生産をスタート。画像2の「GA型グリーンパネル」はその後継モデルの1車種で、1938年5月の発売。また初めて市販された四輪車は、1950年6月の1トン積みトラック「CA型」だった。

 そしてマツダ株式会社への改称は、1984年(昭和59)年5月に行われた。マツダの名前の由来はゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazda)にちなむと同時に、2代目社長で自動車産業に舵を切った松田重次郎の苗字にもちなんでいる。

画像2。マツダ(当時は東洋工業)が1938年5月に発売した三輪車「GA型グリーンパネル」(レストア車両)。第12回ノスタルジック2デイズ2020のマツダブースにて撮影。

第3位:100周年を迎えるもう1社、スズキ

 スズキは、1909年(明治42年)10月に機織り機の製造を手がける鈴木織機製作所として、鈴木道雄の手によって創業した。1920年(大正9)3月15日には鈴木式織機株式会社として会社組織化され、2020年に設立100周年を迎えた(※2)。創立以来、現在まで同一の企業として続いていることから、スズキもまた創立日=設立日のメーカーである。

※2 スズキは会社概要などで設立月までしか記載していないが、2020年3月15日発表のプレスリリース「スズキ、創立100周年を迎えて」に1920年3月15日に創立と記されている。

 1952年(昭和27)6月に大きく事業内容を転換してモビリティ分野に進出。36ccのエンジン付き自転車「パワーフリー号」を発売した。そして、1954年には鈴木自動車工業株式会社に改称。このときが自動車事業の創業といえるだろう。同社が実際に四輪車を初めて発売したのは、翌1955年のこと。同社初の軽自動車でもある画像3の「スズライト」(当時は360cc)だ。スズキ株式会社へと改称したのは、1990年(平成2)10月のことである。

画像3。スズキが1955年10月に発売した軽四輪車「スズライトSS」。

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続いては自動車の製造開始時期が最も早いのは?

自動車製造を開始した時期が最も早いのはどこ?

 続いては、各社の自動車事業の歴史を遡り、自動車の製造を始めた時期(自動車事業の創業時期)が最も早い順に見てみる(表2)。自動車製造を目的として当初から立ち上げた会社であれば、その創立日が、個人事業で始めたのであればその創業日がスタートとなる。まったく別の業種から転換したり、エンジンなどの関連部品や、二輪車・三輪車からスタートして自動車製造も手がけるようになったりした場合は、あくまでも試作車・市販車を問わず四輪車の開発開始もしくは発表、発売した時期、もしくはそれらに類する自動車製造に関する明確な活動を始めた時点とする。また、親会社の一部門として自動車製造を始めて後に独立したメーカーの場合は、親会社で自動車部門が立ち上げられた時点、もしくはそれに類する自動車製造開始に関する明確な活動を開始した時点をスタートとする。やはり古い順に順位をつけると、今回は、同じ年数で1位のいすゞ、日産、日野と、4位の三菱自動車と三菱ふそうの5社を紹介する。

 なお後で述べるが、各社の資料で一致しない部分も一部ある。この点、ご理解をいただきたい。

表2。自動車製造を開始した時期が最も早いランキング。第1位は109年のいすゞ、日産、日野の3社。

第1位:快進社自働車工場にたどり着くいすゞ・日産・日野が同じ109年

 第1位は、いすゞ、日産、日野の3社だ。この3社が同じ109年であると考える理由は、1911年(明治44)、橋本益治郎によって設立された快進社自働車工場(※3)まで遡ることができるからである。ただし、日産は同社設立までの前史として快進社自働車工場を公式に扱っているが、いすゞ(と日野)が扱っているのは、快進社自働車工場の系譜であるダット自動車製造株式会社を1933年(昭和8)3月に合併したというところまで。いすゞは快進社自働車工場まで遡ってルーツとしては扱っているわけではない。いすゞ、日産、日野は複数のメーカーが合併し、また分社するなどして今に至る歴史を有しており、その歴史は少々複雑だ。ポイントとなるのは、快進社自働車工場の系譜であるダット自動車製造を巡る1930年代前半の動きである。

※3 快進社自働車工場:同社の社名は、自動車ではなく、自働車と表記するのが正しい。

 快進社自働車工場は1911年、橋本増治郎が中心となって設立された。橋本は、国内自動車産業の先駆けとなったエンジニアのひとりとして評価されている人物である。その最初の成果が、1914年(大正3)3月に「ダット(DAT)自動車」を完成させたこと(※4)。まずは、日産公式サイト内の「日産自動車前史 脱兎のごとく」をベースに、そのほかの資料から補足を行い、快進社自働車工場から日産が誕生するまでを年表にしてみよう。

※4 DAT:橋本増治郎に出資した、田健次郎(でん・けんじろう)、青山禄郎(あおやま・ろくろう)、竹内明太郎(たけうち・めいたろう)の3人の頭文字を意味する。また、耐久性のある(Durable)、魅力的で(Attractive)、信頼できる(Trustworthy)という意味もあるという。さらにいえば、速さをイメージできる”脱兎”にも引っかけてあると伝えられている。1号車は完成せず、2号車で完成した。

1911年(明治44)7月:橋本らが中心となり、快進社自働車工場が設立される(※5)
1918年(大正7):快進社自働車工場、株式会社快進社となる
1919年(大正8):米国人技師ウィリアム・ゴルハムの三輪車の製造と販売を目的として、実用自動車製造株式会社が大阪に設立される
1925年(大正14):快進社の経営不振を受け、合資会社ダット自動車商会が設立される
1926年(大正15):実用自動車製造は経営不振からダット自動車商会と合併し、ダット自動車製造と改称する
1931年(昭和6)6月:ダット自動車製造、戸畑鋳物株式会社(1910年・明治43年設立)の傘下に(※6)
1933年(昭和8)3月:戸畑鋳物、自動車部を立ち上げ
1933年12月26日:戸畑鋳物自動車部を独立させ、自動車製造株式会社を設立
1934年6月:日産自動車株式会社に改称

※5 日産の協賛を得て、国立科学博物館と日本自動車殿堂が2011年6月から7月にかけて開催した「快進社創業100周年記念展示」のプレスリリースで確認。ただし、日本自動車殿堂・2011年歴史車「ダットサン12型フェートン」(1932年)の解説にある年表によれば、同じ年の4月とある。
※6 日本自動車殿堂・2011年歴史車「ダットサン12型フェートン」(1932年)の年表で確認。

 苦戦続きの結果として誕生したダット自動車製造だったが、やはり販売はうまくいかなかった。そこに現れるのが、日産コンツェルンの創始者である実業家の鮎川義介だ。鮎川は自らが所有する企業のひとつである戸畑鋳物で自動車部品を製造していたことから、自動車製造への進出を考えていた。そしてダット自動車製造を傘下としたのである。

 しかしこの後、ダット自動車製造を巡る動きが少し複雑な展開を見せる。「日産自動車前史 脱兎のごとく」など、日産のサイトには特に記されていないが、いすゞ公式サイト内の沿革にある年表によれば、1933年(昭和8)3月に、株式会社石川島自動車製作所(いすゞの前身の1社、以下「石川島自動車」)がダット自動車製造と合併し、自動車工業株式会社と改称したとある。つまり、戸畑鋳物と石川島自動車の両方がダット自動車製造を手にした形になってしまうのだ。

 そこでさらに調べたところ、川崎市が開催している「かわさき産業ミュージアム講座」において、2005年12月に「いすゞ自動車の歴史とディーゼルエンジン」が開催されており、その公開資料でより詳しい状況を知ることができた。同講座を担当したのは、株式会社いすゞ中央研究所の高原正雄専務取締役(当時)。1970年にいすゞに入社し、技術畑を歩いてきた人物だ。15年前の講座ではあるが、現在もその内容が川崎市から公開されている。同資料によると、当時、石川島自動車、ダット自動車製造、東京瓦斯電気工業株式会社(とうきょうがすでんきこうぎょう:いすゞと日野の前身、以下「瓦斯電」)は、各社それぞれ得意とする部品を作って組み立てて1台を完成させるという製造の仕方を採用していたという。完成車メーカーというよりも、サプライヤー的に活動していたようだ。その製造方法に対し「効率が悪い」としたのが、納品先の陸軍省、商工省(現・経済産業省)、鉄道省(現・国土交通省)などである。

 陸軍省などは効率の悪さを解消するため、幾度も合併するよう3社に働きかけを受けるが、なかなか進まない。それでも合併する方向で動き出し、まず石川島自動車が1933年(昭和8)3月にダット自動車製造を合併することにし、そのタイミングに合わせて自動車工業株式会社と改称。この合併により、ダットサンブランドの民生用小型乗用車の製造権も自動車工業のものとなったという。しかし3省が必要としていたのは、バスやトラックなどの大型車。小型乗用車の生産設備は必要がなかったことから、ダットサンブランドも含めてその製造権に関しては、自動車工業が鮎川(戸畑鋳物)に譲り渡したというのが事実のようだ。

 その後の状況は、「日産自動車前史 脱兎のごとく」でも確認することができる。鮎川は同じ1933年3月に戸畑鋳物内に自動車部門を立ち上げる。さらに半年後の12月26日にはその自動車部門を独立させ、日本産業と戸畑鋳物で共同出資した自動車製造株式会社を設立した。これが日産の始まりであり、同社でも設立日として公開している。翌1934年6月1日には、日本産業の100%出資として、日産自動車株式会社に改称(1944年9月~1949年8月までの社名は日産重工業株式会社)。快進社自働車工場から日産までは、このようにしてつながっているのである。

画像4。戸畑鋳物での自動車製造としては末期になる1933年12月から製造が始まった、現存するダットサンで最古の量産車「ダットサン12型フェートン」。

 続いては、いすゞと日野について見てみよう。冒頭で紹介したように、日野はいすゞの軍用装軌車両(特殊車両)部門を担っていた日野製造所が分社化して誕生したメーカーだ。つまり、いすゞと日野はその歴史を語るとき、切っても切り離せない関係といえる。ただし、いすゞも日野も、公開された資料では、前身となる企業、創業年について異なる考え方をしている。

 ダット自動車製造の説明でも触れたが、両社は、大きく3社の合併によって誕生した。株式会社東京石川島造船所(現・IHI、以下「石川島造船」)の自動車部門として誕生した石川島自動車、瓦斯電の自動車部、そしてダット自動車製造だ。まず石川島自動車がダット自動車製造を合併し、1933年(昭和8)3月に自動車工業と改称したのは既述した通り。その後、1937年(昭和12)4月9日に、新たに東京自動車工業株式会社が設立され、そこに自動車工業と瓦斯電自動車部の業務を移す形でついに3社の合併が完了。この日が、いすゞの設立日である。

 そして、いすゞが創業年としているのが1916年。その理由は、親会社である石川島造船と瓦斯電がそれぞれ別個に、この年に自動車部門を立ち上げたからだ。

画像5。石川島造船自動車部が1924年(大正13)にノックダウン生産した英ウーズレー社製「CP型トラック」。いすゞプラザにて撮影。

 一方、日野の設立日は1942年(昭和17)5月1日。いすゞの前身であるヂーゼル自動車工業が、日野製造所を分社独立させ、日野重工業株式会社を設立した日である。そして日野が創業日としているのが、瓦斯電の前身である東京瓦斯工業株式会社の設立日である1910年8月13日。日野が瓦斯電だけをルーツとするのには理由がある。ヂーゼル自動車工業の日野製造所に所属していたのが、旧瓦斯電自動車部のエンジニアだったからだ。

 それは、自動車技術会が公開している歴史資料のひとつで、1995年に収録が行われた、日野の家本清顧問(当時)への「瓦斯電から日野自動車へ」というインタビュー記事で確認することができる。家本顧問は1932年(昭和7)に瓦斯電に入社し、自動車工業との合併を経て東京自動車工業が誕生し、そこから分社独立して日野重工業が設立。そして、日野自動車となるまでを社内から見てきたエンジニアだ。技術部門のトップを務め、1970年代の半ばから末にかけて日野の副社長を務めた人物でもある。

 ともあれ、いすゞと日野は3系統のルーツを持ち、その3つのうちでダット自動車製造が1911年創業の快進社自働車工場までたどれることから、ここでは、いすゞも日野も109年とした。なお、いすゞと日野の主な出来事に関しては、以下に年表としてまとめてみた。

1910年8月13日(明治43)
東京瓦斯工業、設立(日野の創業日)
1913年6月25日(大正2)
東京瓦斯工業、東京瓦斯電気工業(瓦斯電)と改称
1916年(大正5)
石川島造船および瓦斯電が、それぞれ個別に自動車製造を計画(いすゞの創業年)。画像5の英ウーズレー社製「CP型トラック」は、石川島造船の自動車部門時代に生産された車種
1929年(昭和4)5月
石川島造船、自動車部門を独立させ、株式会社石川島自動車製作所を設立
1933年(昭和8)3月
石川島自動車、ダット自動車製造を合併し、自動車工業と改称
1937年(昭和12)4月9日
新たに東京自動車工業が設立され、同社に自動車工業と瓦斯電の自動車部門の業務が移される形で合併(いすゞの設立日)
1941年(昭和16)4月
東京自動車工業、ヂーゼル自動車工業株式会社と改称
1942年(昭和17)5月1日
ヂーゼル自動車工業、日野製造所を独立させ、日野重工業を設立(日野の設立日)
1949年(昭和24)7月
ヂーゼル自動車工業、いすゞ自動車株式会社と改称
1999年(平成11)
日野重工業は幾度かの社名変更、そして製販分離などを行うが、最終的に製造部門の日野自動車工業株式会社と販売部門の日野自動車販売会社が合併し、現在の日野自動車株式会社が誕生

 いすゞの社名の由来は、伊勢神宮のすぐ脇を流れる五十鈴川にちなむ。1933年(昭和8)3月に開発した商工省(現・経済産業省)の標準形式の自動車(バスとトラック)に対し、翌1934年9月に「いすゞ」と命名したことに始まる。1949年(昭和24)7月になって、商標と社名の統一を図ったのである。また日野は、本拠地が東京の日野市にあることが社名の由来だ。

第4位:三菱造船で103年前に始まった自動車製造

 第4位は、自動車製造のルーツをたどると同じ三菱造船株式会社(の神戸造船所)に行き着く三菱自動車と三菱ふそうバス・トラックだ。まずは、三菱自動車から見てみよう。同社は、1970年4月22日に三菱重工業株式会社(以下「三菱重工」)から分社独立して設立され、現在に至る。それ以前は三菱重工の自動車部門だった。その自動車製造は、今から103年前、1917年(大正6)まで遡る。三菱合資会社の造船部門(1907年・明治40年に立ち上げ)が独立し、後の三菱重工につながる三菱造船が設立された年でもある。

 三菱造船は独立とほぼ同時に、三菱初の自動車にして量産乗用車である「三菱A型(三菱甲型)」(画像6、※7)の試作を、神戸造船所にて始める。陸軍の要請に応じて、乗用車を製作することになったのだ。当時の自動車先進国だったイタリアのフィアット製「A3-3型車」を参考に開発が進められたという。1917年の夏頃から始まり、試作第1号が完成したのは1918年11月のことだった。内燃機関や車体・室内に関する知識も生産経験もない上に、専用工具や工作機械どころか図面すらない中、技術者たちがハンマーや鏨(たがね)などを手にハンドメイドで作り上げていった。「三菱A型」のエンジンは鋼鉄製、ボディは木のフレームに鉄板を貼ったもの、塗装はうるし塗りが施された。車室は木材をくりぬいて製作し、室内には高級な英国製の毛織物が使用されたという。またヘッドランプはガス燈で、ホーンはラッパだった。

 こうして純日本製でも生産できることが証明され、「三菱A型」は1921年までに計22台が生産された。しかし、陸軍の方針転換で三菱造船が航空機製造に主力を移すことになり、自動車製造に関しても大型バスの開発と生産が中心となったことから、「三菱A型」の生産はそこで終了となった。乗用車の生産が再開されたのは1950年代に入ってからである。

※7 三菱A型の発売時期について:「三菱A型」は、自動車技術会の「日本の自動車技術330選」(1998~2017年に選出)と、日本自動車殿堂の2019年「歴史遺産車」に選定されている車種。”日本(国産)初の量産乗用車”であることが、その選定理由だ。ほぼ同時期の1919年に快進社の「ダット41型」も発売されたと日産公式サイト内の「日産自動車前史 脱兎のごとく」にあるが、2018年11月に1号車が完成した「三菱A型」の方がわずかに早かったようだ。

画像6。1917年(大正6)の夏から三菱造船の神戸造船所で試作が始まった「三菱A型」。1年以上の時間をかけて、試作第1号は1918年11月に完成した。

 続いては、三菱ふそうトラック・バスだ。同社は今回取り上げた12社のうちで、唯一21世紀に設立されたメーカーだ。三菱自動車からトラックやバスなどの大型車部門が分社独立した形で、設立日は2003年1月6日。当初は三菱自動車の完全子会社としてスタートしたが、それ以降に経営環境は大きく変化し、現在はダイムラーグループの一員(ダイムラートラックの傘下)となっており、ダイムラーの日本語公式サイト内に三菱ふそうの歴史もまとめられている。

 三菱ふそうでは、1932年(昭和7)5月に三菱造船・神戸造船所にて、100馬力のガソリンエンジンを搭載した乗合自動車(大型バス)「B46型」の第1号が完成したことを始まり(創業)としている。これに従うと88年の歴史となって単独の第5位となるが、同じ三菱造船の神戸造船所での話である以上、1917年の「三菱A型」まで自動車製造の歴史を遡ることはできるだろう。今回のランキングでは、そのように考えて三菱自動車と同じ103年の歴史とし、同順位の第4位とした。

 「ふそう」の誕生から2年後の1934年(昭和9)には、三菱重工が誕生。三菱重工では大型車の開発と生産が続けられ、「ふそう」の名は同社の大型バスのブランド名となっていった。1949年(昭和24)には、大型車の販売を扱うふそう自動車販売株式会社も設立。「ふそう」の名は社名にも使われるようになる。その後、大型車部門は三菱重工系のグループ内で合併などが行われ、最終的には1984年(昭和59)に三菱自動車が吸収。そして2003年になって、三菱ふそうトラック・バスとして大型車部門は独立したのである。

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今のメーカー名になって最も長いのは?

現在の社名になって最も歴史があるのはどこ?

 最後は、各メーカーが現在の社名になってからどれぐらい経っているかを調べて、長い順に順位をつけてみた。設立以来一度も社名が変わっていないメーカーもあれば、何度となく変更しているメーカーもある。

表3。現在の社名になってから歴史の長い順にしたランキング。いすゞと日産は同じ71年だが、いすゞの方が1か月早いため、第2位。

第1位:設立以来72年、一度も社名変更のないホンダ

 第1位となったのはホンダだ。72年前に本田技研工業株式会社として設立して以来、一度も社名変更をしたことがない。カリスマとして知られる本田宗一郎が、1946年(昭和21)に本田技術研究所を創設したのがホンダの出発だ。そして、本田技研工業として会社組織化(設立)されたのは、それから約2年後の1948年9月24日のことである。なお、ホンダも創立日=設立日のメーカーのひとつだ。

 当初バイクの開発を進めたホンダは、1958年9月に四輪車開発を本格化させる。埼玉県北足立郡大和町の白子工場内にあった技術研究所内に四輪開発を専門とする第3研究課を創設し、試作車の開発をスタート。そして1963年8月、ホンダは初の四輪車にして軽自動車・商用車でもある「T360」を発売し、自動車メーカーの仲間入りを果たしたのである。

画像7。ホンダの軽トラック「T360」。1963年8月に発売されたホンダ初の四輪車。お台場旧車天国2018にて撮影。

第6位:1度だけ社名を変更したトヨタは38年

 第2位から第5位まではこれまでのランキングで取り上げたため、続いては第6位のトヨタを紹介しよう。トヨタは、株式会社豊田自動織機製作所(現・株式会社豊田自動織機)の自動車部門が独立する形で、1937年(昭和12)8月28日に設立された。設立当初の社名は、トヨタ自動車工業株式会社(以下「トヨタ自工」)。その後、1950年(昭和25)4月3日にトヨタ自動車販売株式会社(以下「トヨタ自販」)が設立され、1982年(昭和57)7月1日にはトヨタ自工とトヨタ自販が合併。こうしてトヨタ自動車株式会社が誕生し、今に至るのである。

 なお豊田自動織機製作所時代は、豊田の読み方は創業者の豊田佐吉(※8)と同じ「とよだ」だった。1936年(昭和11)9月14日に、東京府商工奨励館にて披露された初の乗用車「AA型」などのエンブレムも、当初は「TOYODA」だったのである。しかしその約1週間後の9月25日、一般公募でトヨタマークを制定した際に、合わせて「とよた」へと変更。その理由は3点ある。濁点がなくなるとさわやかで言葉の調子がいいことがひとつ。総画数が8画となり、縁起がいいことがふたつ目。さらに創業者の苗字から離れることで、個人の会社から社会的企業へと発展するという意味も込めての変更だったのである。

※8 豊田佐吉:現在の社長(第11代)である豊田章男の曾祖父。豊田佐吉は豊田自動織機製作所の創業者ではあるが、初代社長は娘婿の豊田利三郎が務めた。また、トヨタ自工の初代社長も豊田利三郎である。

画像8。トヨタ初の乗用車「トヨダAA型」。メガウェブにて撮影。

第11位:複数回にわたって社名の変更を行ったUDトラックス

 第11位は、2010年2月に日産ディーゼル工業株式会社から改称し、10年周年のUDトラックス株式会社だ。同社の創業日は今から85年前、1935年(昭和10)12月1日の日本デイゼル工業株式会社の設立日(創立日)である。UDトラックスの沿革によれば、1927年に欧州の産業界を視察した安達堅造がディーゼルエンジンに目をつけ、その国産化とトラックの開発を目的に、ゼロから設立したのが日本デイゼル工業だった。

 日本デイゼル工業はその後、鐘淵デイゼル工業株式会社、民生産業株式会社と1940年代に2度改称。そして、民生産業の自動車部門の資産だけを継承して1950年(昭和25)5月に新たに設立されたのが、民生デイゼル工業株式会社だ。これが、UDトラックスの設立日である。その年の暮れには日産ディーゼル工業となり、その3年後には日産が資本参加。2006年3月にはボルボが資本参加し、2010年2月にUDトラックスに改称となった。

 なお社名のUDとは、Uniflow scavenging Diesel engine(ユニフロー掃気ディーゼルエンジン)の略である。日産ディーゼル工業時代の1955年1月に発表された3気筒110馬力の「UD3」エンジンと4気筒150馬力の「UD4」エンジンから「UDエンジン」と呼ぶようになり、UDトラックスのUDはそれにちなんでいる。また同年6月に発表された6気筒エンジン「UD6」は、230馬力を達成。当時、「世界で最も1馬力あたりの重量が軽いエンジン」として高く評価されたという。

第12位:伝統のブランド名を社名として3年目となるスバル

 第12位は、2017年4月1日に富士重工業株式会社(以下「富士重工」)から株式会社SUBARUへと改称したスバル。この改称は、「”価値を提供するブランド”としてこれからも生きていく」という決意表明としての社名変更だとしている。富士重工の設立日は1953年(昭和28)7月15日で、社名変更はSUBARUへの1回のみ。ただし公開されている沿革によれば、スバルには戦前まで遡る長い歴史がある。スバルが創業期としているのが、1917年(大正6)5月。元海軍士官で、国産航空機の重要性を説いていた中島知久平が退官し、長年の夢だったという飛行機研究所を創設したのが始まりだ。後に中島飛行機株式会社として会社組織化(設立)され、太平洋戦争中は軍用機を生産した大メーカーの出発点である。

 そして、太平洋戦争の終結とともに平和産業への転換を実施。その第一歩として、終戦から2日しか経っていない1945年(昭和20)8月17日に、富士産業株式会社と改称した。しかし1940年代末から1950年にかけ、GHQの財閥解体により、ほぼ工場単位で富士産業は12の企業に分割されてしまう。1953年になり、再び合併が許される状況になると再集結が試みられる。さまざまな事情で全社が集まれなかったが、東京富士産業や富士自動車工業など、5社が集結。共同出資して富士重工を設立し、数年後に5社は富士重工に吸収合併される形でひとつにまとまったのである。

 富士重工が乗用車の開発をスタートさせたのは、1954年(昭和29)2月のこと。後に「スバル1500」と命名されることになる試作車「P-1」を開発したのが始まりだ。そのときに得たノウハウを存分に活用して誕生させたのが、名車「スバル360」である。「スバル」の名は、富士重工業の初代社長である北謙治の命名によるものだ。北には信念として「国産車には日本語の名前をつけるべきである」という考えがあったという。社内募集したがめぼしいものがなく、自身で温めていた「スバル」を命名することにしたのだそうだ。「スバル」とは漢字で昴と書き、古くは”六連星(むつらぼし)”などとも呼ばれる、牡牛座の散開星団であるプレアデス星団のことだ。肉眼では6~7個の明るい星がまとまって見え、北は再集結した中島飛行機系の5社と新たに誕生した富士重工のイメージを重ねてもいたと伝わっている。

画像9。「スバル360」。第12回ノスタルジック2デイズ2020にて撮影。


 今回は3つの切り口でランキング化して紹介したが、それぞれのメーカーがどのように誕生し、どのような経緯をたどって今があるのかを知ると、また違った視点からそのメーカーを見ることができ、より各社のクルマを楽しめると思う。以下に、今回の資料とした各社の歴史に関するページなどの出展元を掲載した。ぜひ興味のある方は自分の目でも確かめてみてほしい。

 

【各社公式サイトの参照ページなど】 
●いすゞ:企業情報>歴史・沿革、かわさき産業ミュージアム講座「いすゞ自動車の歴史とディーゼルエンジン」(2005年第4回)公開資料
●スズキ:沿革、2020年3月15日発表のプレスリリース「スズキ、創立100周年を迎えて」
●スバル:企業情報>会社概要>沿革 1917年~2018年、スバルWebコミュニティ「#スバコミ」内「スバル博物館」
●ダイハツ:会社案内>沿革>「主要事項」および「主要商品」、沿革>ひと目でわかるダイハツ>「ダイハツの原点」および「ダイハツの歴史」、2006年12月18日発表のニュースリリース「創立100周年を記念した取り組みについて」
●トヨタ:トヨタ75年史(※9)
●日産:会社情報>会社概要>会社と商品の歴史>「日産自動車前史 脱兎のごとく」および「日産の歴史」、日本自動車殿堂・2011年歴史車「ダットサン12型フェートン」(1932年)解説
●日野:企業情報>日野自動車について>沿革、自動車技術会「瓦斯電から日野自動車へ」公開資料
●ホンダ:企業情報>会社案内>ヒストリー、特別サイト「語り継ぎたいこと~チャレンジの50年~」(※10)
●マツダ:会社案内>沿革、2020年1月30日発表のプレスリリース「マツダ、創立100周年を迎えて」
●三菱(※11):企業情報>沿革、自動車技術会・日本の自動車技術330選「三菱A型」解説、日本自動車殿堂・2019年歴史車「三菱A型(三菱甲型)」解説
●三菱ふそう(※12):ダイムラー・トラックス アジア公式サイト内>伝統>ふそうの歴史
●UDトラックス:企業情報>ブランド>UDの歴史、会社案内のUDトラックス沿革

※9 トヨタ75年史:設立75年の2012年11月にオープンした、トヨタ公式の75年史
※10 語り継ぎたいこと~チャレンジの50年~:1999年の創業50年時にオープンしたホンダ公式の50年史
※11 三菱について:三菱重工業の沿革および三菱重工・神戸造船所の沿革も参照
※12 三菱ふそうについて:三菱重工業の沿革および三菱重工・神戸造船所の沿革、三菱の沿革も参照

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