クルマのある暮らしをもっと豊かに、もっと楽しく

Cars

最終更新日:2021.01.26 公開日:2021.01.26

「スーパーカー」という言葉は世界で通じない?【越湖信一のスーパーカー熱狂時代 Vol.01 ランボルギーニ イオタ】

イタリア・モデナを中心に、世界を股にかけ取材を続けるカー・ヒストリアンの越湖信一氏が、古今東西、珠玉のスーパーカーを1台ずつ紐解き、当時の開発秘話や裏話を交え紹介していく新連載。第1回目は日本独自の「スーパーカー・ブーム」について。

文・越湖信一 写真・Automobili Lamborghini S.p.A.

記事の画像ギャラリーを見る

スーパーカーが通じない!?

 日本では、街を走るフェラーリやランボルギーニを見て、「あのスーパーカーがね……」といった会話を突然はじめても、ちょっとでも車が好きな人ならば、その言葉に違和感を持つことは少ないだろう。スーパーカーとは一体何のことだろうとは、誰も考えないはずだ。

 ところが、イタリアで「スーパーカーがね……」と会話をはじめると、相手の反応は確実に一呼吸遅れる。「スーパーカー? 特別なクルマのことか? ああ、いわゆるエキゾチックカーね、フェラーリみたいな」といった感じで、一旦、思考がアタマの中を駆け巡るようだ。

 かつて私も、実際に現地で試してみたが同じような反応が返ってきてビックリしたことがある。そう、私たちにはごく当たり前なスーパーカーという概念は、世界的にみれば、さほどポピュラーではない。日本独自のガラパゴス的な概念なのだ。

日本とイタリアの温度差

 私は仕事でイタリアン・スーパーカーの聖地であるモデナを頻繁に訪ねているが、ミラノからクルマで1時間半くらい、ボローニャの隣町にあるその街には、フェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ、はたまた新興ブランドともいえるパガーニなども本拠を構えている。

 そこではもちろん、当地のクルマ仲間たちとしばしばクルマ談義となる訳だが、あるとき私は「ランボルギーニ イオタはスーパーカー・ブームの頃に日本で大人気でね……」と話を切り出す機会があった。するとクルマ好きのオヤジは、「何だ、それは?」と言うではないか!

「ちょっと待ってよ。レースへの参加を夢見て、ランボルギーニのエンジニアであって、テストドライバーでもあったボブ・ウォレスがミウラをベースに改良を加えたワンオフ・レースカーだよ。その一台も事故で焼失してしまった幻の……」などとマニアックな説明をする私に、「ああ、あったね。イオタだっけ?」と、やはり彼はノッてこない。

 その彼とは、この話をする前まで「デ・トマソ・パンテーラのZFトランスミッションは、マセラティ ボーラにも使われていて……」といった、かなり濃いやりとりをしていたにも関わらず、である。ご当地のクルマ好きにとってもかのイオタはその程度の認識なのだ。

【ランボルギーニ イオタ】1966年のジュネーブモーターショーにて発表された画期的な大排気量ミッドマウントエンジン・スポーツカー、ミウラをベースとして製作されたエクスペリメンタル・モデル(実験車)。

こちらはイオタのベース車両となった、ランボルギーニ ミウラ

日本独自のスーパーカー・ブーム

 スーパーカー・ブームの渦中にいた貴方なら、ランボルギーニ イオタが当時の小学生の間でいかに人気があったかということ、そして、あの特徴的なフロントスポイラーの存在を、50年の歳月を経た今でも鮮明に覚えているのではないだろうか。

 当時の日本は、世界的にみても相当に特殊な自動車文化の洗礼を受け、それは今も”スーパーカー世代”の血となり、肉となっている。あれから50年が経った現在では、逆に世界の自動車好きが日本独自のスーパーカー・ブームに強い関心を抱くという摩訶不思議な現象さえ起こっているほどだ。

 この偉大なるムーブメントをリアルタイムで体験された貴方、そして遠い昔のハナシとして聞かされていた比較的若き貴方も、ぜひこの素晴らしいカルチャーに再び注目して頂きたい。それが新連載開始に向けて、筆者の切なる願いである。

 次回以降は、日本中を熱狂させた古今東西、珠玉のスーパーカーの歴史を1台ずつ紐解き、なぜ日本独自のブームとなっていったのか。当時の開発秘話や裏話を交え、その真相を掘り下げていきたい。どうぞお楽しみに。

【スーパーカー・ブーム】1977年あたりをピークに日本全国の小中学生を熱狂の渦に巻き込んだ自動車ブーム。ブームに火を付けたのは週刊少年ジャンプに連載された「サーキットの狼」であった。

記事の画像ギャラリーを見る

この記事をシェア

  

Campaign

応募はこちら!(12月1日まで)
応募はこちら!(12月1日まで)