怖くて悲しい歴史がある心霊スポット5選。ストリートビューで心霊スポット巡り
全国には数多くの心霊スポットがあり、「幽霊を見た」「声が聞こえた」など不思議な体験談も多く耳にする。そんな心霊スポットをGoogleストリートビューで訪れるバーチャルドライブ企画。悲しい由来を持つ5つの心霊スポット巡りに出かけてみませんか。
歴史的背景がある心霊スポットを、ストリートビューで体験
廃墟や墓場、古い建築物、森など、心霊スポットといっても思い浮かべる場所は人によってさまざまだろう。いずれの場所にも、心霊スポットと呼ばれる由来があるわけだが、それは事故や事件の現場だったり、歴史的な伝承や都市伝説がある場所だったりする。また、スポットによっては山道の奥だったり、廃道の先だったり、場所の特定が難しいこともある。しかし、今やgoogleストリートビューを利用すれば、家にいながらにして心霊スポット探訪をすることが可能なのだ。本記事では、数ある心霊スポットの中から、悲しい歴史や由来がいわれる場所を5つご紹介しよう。もちろん、心霊現象にまつわる部分の話は人々の噂であり、信じるかどうかはみなさん次第である。
鎖塚(北海道北見市)
北海道網走市から旭川市までを通る国道333号は、かつて中央道路と呼ばれ、軍用・開拓用の道路として建設された道路だ。この道路の開拓には網走監獄に収監されていた数多くの囚人が駆り出されたのだが、逃亡を防ぐために作業中の囚人は二人一組で4kgの鎖により足をつながれていた。過酷な環境と労働は、囚人たちを死に至らしめることもあったという。
そうして亡くなった囚人仲間を弔うために、遺体に土をかけた土饅頭(どまんじゅう)がつくられたが、そこに墓標として鎖などが置かれたことから「鎖塚」と呼ばれたという。ストリートビューで見られる供養碑と地蔵は、彼らを開拓の功労者として弔うために設置されたもので、1992年に端野町指定文化財に指定されている。夜間にここを歩いていると、無念の死を遂げた囚人たちの霊なのか、鎖を引きずる音が聞こえてくることがあるという。
鈴ヶ森刑場跡(東京都品川区)
1651年に開設された刑場で、1871年に閉鎖されるまでに10万人から20万人もの罪人が処刑されたという鈴ヶ森刑場跡。現在は日蓮宗大経寺の境内にあり、供養塔や処刑に使用したといわれている火炙台、首洗いの井戸などの遺跡が残されており、当時の処刑の凄惨さを今もなお伝えている。ここでは昔から、夜間に歩いていると幽霊を目撃したという噂が多数あり、写真に写り込むこともあるという。
歴史的価値も高く、東京指定文化財にも指定されており、ストリートビューでは旧東海道の道なりに複数の供養塔を確認することができる。
ちなみに、この刑場跡には悲しい伝説も残されている。それは、小説や歌舞伎の物語としても有名な「八百屋お七」。有名な伝説なので知っている読者も多いのではないだろうか。作品によって多少の違いはあるが、よく知られている物語の筋は、『八百屋の娘お七が火事で焼け出された際に、避難した寺で恋仲になった寺小姓庄之介への想いを募らせ、家が建て直された後で「火事になればまた一緒に寺で暮らせる」と放火をしてしまい、その罪で火あぶりに処された』というもの。その処刑場が鈴ヶ森刑場だったそうである。
後世の創作という説が濃厚らしいが、こうした伝説が江戸の人々に支持されたのは、当時は罪人とはいえさまざまな思いを持って無念の死を迎えた人も多かったからかもしれない。
八王子城跡(東京都八王子市)
八王子城は小田原征伐の一環として、1590年に豊臣軍によって落城させられた北条氏の本城小田原城の支城であった。現在は国史跡八王子城跡として整備されており、約159ヘクタールにも及ぶ広大な敷地内では、御主殿跡や石垣などさまざまな史跡を見ることができる。
さて、この八王子城は、小田原城に対する見せしめのために攻城され、小田原討伐において他に例を見ない悲惨な戦となったことでも知られている。落城の際、北条氏照の正室、比左をはじめ多くの婦女子が「御主殿の滝」の上で自刃し身を投じ、その血で川の水は三日三晩赤く染まったといい伝えられているほどだ。その歴史的背景からだろうか、この滝付近では、うめき声やすすり泣きの声が聞こえる、異様な気配を感じたなど不思議な体験をした人も多いそうである。
ストリートビューの「御主殿の滝」からは、今にも滝の音とせせらぎが聞こえてきそうな、涼やかな風景を見ることができる。自然に囲まれた穏やかで風情がある様子からは、悲しい歴史は感じられない。実際に訪れることがあれば、弔いの気持ちも忘れないようにしたい。
花魁淵(山梨県甲州市)
花魁淵は、心霊スポットの中でも有名な場所のひとつだ。かつては、国道411号を下り方面(塩山方面)沿いに進んだ先に、慰霊碑と花魁淵としての看板が出ていたのだが、2011年にトンネルを含むバイパス道路に変更されてからは旧道となり、現在は厳重に閉鎖されているため実際には辿り着くことはできない。
この花魁淵という名称は、悲しい歴史が由来している。花魁淵の南西部にある鶏冠山一帯は、戦国時代の武田家の隠し金山といわれた黒川金山だった。しかし、武田家滅亡の一連となる甲州征伐の折に閉山されることとなった。その際、金山の秘密保持のために鉱山労働者の慰安のために連れてこられていた遊女らが殺されたのだ。言い伝えによると、酒宴の興にと藤蔓で吊った演台の上で遊女らを舞わせ、その間に蔓を切って演台もろとも淵に沈めて殺害したのだという。
ストリートビューでは、現在は通行止めとなっている旧道先の花魁淵を覗き見ることができる。生い茂る木々の下に覗く水流あたりに、遊女たちの死体が重なるように流れ着いたといわれており、訪れた人たちがさまざまな怪奇現象に遭遇したという話もある。ちなみに、一説によると実際に演台が設けられた場所は、ここから1キロほど上流にある藤尾橋の近くにある「ゴリュウ滝」ではないかともいわれているらしい。こちらもストリートビューで、わずかにではあるが鉄製の橋上部を見ることができる。
原城跡(長崎県南島原市)
原城は、1638年に起きた島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が最後に籠城した城である。国の史跡文化財に指定されており、2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産として世界文化遺産にも登録された。
さて、天草四郎についてはご存じの読者も多いと思うが、重税と過酷なキリシタン弾圧に反発した一揆軍の若き総大将として有名な歴史上の人物である。しかし抵抗もむなしく幕府軍に鎮圧されてしまい、最終的には籠城した全ての人間が処刑された。中には非戦闘員の女性や子どもも含まれており、その数は37000人にものぼったといわれている。
そして、近年の発掘調査により、大量の人骨や十字架などが発見された。原城跡には、天草四郎の墓碑や慰霊のために建てられた地蔵があり、ストリートビューでも今もなお献花が絶えない様子を窺うことができる。その彼らの無念の思いが残っているのか、原城跡ではふと血の匂いがしたり、うめき声が聞こえることがあるという。また、敷地内の断崖絶壁に立つ3体の石像が見つめる先には、一揆を起こすことを決めたといわれる「湯島」が見える。そのもの悲しげに感じられる後ろ姿を見ていると、犠牲となった人々の冥福を祈らずにはいられない。
ストリートビューでの心霊スポットめぐりは、いかがだっただろうか。バーチャル肝試しなんてことも可能な時代になったわけだが、PCやスマホを通しても、心霊スポットから何かを感じたかもしれない。なお、実際に訪れる場合は、立ち入りが禁止されている場所への無断進入は厳禁である。また、慰霊のための場所であることも多いので、先人への敬意と配慮を忘れないようくれぐれもお願いしたい。