1960年代の第1期から2000年代後半の第4期まで、ホンダのF1マシンを並べてみた!
ホンダは幾度かの中断を挟みつつ、1960年代からF1に挑戦し続けている。1964(昭和39)年から1968(昭和43)年までの第1期、1983(昭和58)年から1992(平成4)年までの第2期、2002(平成14)年から2008(平成20)年までの第3期、そして2015年から2018年現在も参戦中の第4期に分かれる。ここでは第1~3期からは代表的なマシンを1台ずつ、現在進行形である第4期からは4台のマシンを紹介する。
参戦2年目で優勝したホンダ純正F1マシン「RA272」(1965年)
ホンダ「RA272」(1965年、リッチー・ギンサー搭乗11号車)。全長、全幅、全高は未公表。ホイールベース:2300mm、トレッド:前1350/後1370mm。車重:498kg。車体構造:アルミニウムモノコック、アルミボディ。サスペンション:前後共ダブルウィッシュボーン。タイヤ:グッドイヤー製。エンジン型式:RA272E。形式:水冷横置き60度V型12気筒DOHC48バルブ。排気量:1495cc。最大出力230hp(171.5kW)、回転数未公表。最大トルク未公表。最高回転数1万2000rpm。エンジン重量:215kg(ギアボックス含む)。燃料タンク:180L。
ホンダが具体的にF1に参戦することを決意したのは、1962(昭和37)年のこと。それまで2輪で成果を出していたことから、故・本田宗一郎氏の長年の夢として、F1への挑戦が始まったのである。そして1963(昭和38)年にシャシーもエンジンもオールホンダで開発されたのが、プロトタイプの「RA270」だ。このときのF1マシンはフロントにもリアにもウィングがなく、俗にいう「葉巻型」が特徴である(ホンダのF1マシンとしては、1968年の第1期最終マシン「RA301」で初めてリアウィングが取り付けられた)。
ホンダは、1964(昭和39)年の第6戦ドイツGPに「RA271」を投入。翌1965(昭和40)年に投入されたのが「RA272」だった。「RA272」はライバルチームのマシンに対し、空力的にも優れていたし、エンジンパワーもあったが、弱点は車重と、そのための運動性能の低さだった。
そこでシーズン中に徹底的なシャシーとエンジン本体の軽量化が図られ、別物といっていいほど手が加えられた「RA272改」が登場。残り3戦に投入され、最終戦のメキシコGPで、米国人ドライバーのリッチー・ギンサーによって優勝を成し遂げたのである。
ホンダの第1期は1968(昭和43)年まで続けられた。しかし、本格的な4輪車市場への参入を狙っていたことから経済的にも人的にも余裕がなくなり、参戦当初の目標であった「4輪車の技術習得」を成し遂げたという判断に至り、第1期は終了となった。1967(昭和42)年にも「RA300」が勝利し、ホンダは第1期に通算2勝を挙げた。
「RA272」を後方から。この時代、リアサスのスプリングがむき出しであることを利用し、後方のドライバーは前のマシンのサスの動きを見て、そこからもドライビング・テクニックを盗んだという。なお”RA”とはRacing Automobileの略で、”270″は270馬力を意味する。なぜ270馬力かというと、本田宗一郎氏が、「とにかく勝つためにはこれだけ出せ。270馬力出すんだよ!」という鶴の一声で決められた馬力の目標設定だったそうだ。”RA”はエンジン形式の頭文字として、現在も使用されている。
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音速の貴公子が奮戦した第2期最後のマシン!
セナも乗ったマクラーレン・ホンダ「MP4/7A」(1992年)
マクラーレン・ホンダ「MP4/7A」(1992年、アイルトン・セナ搭乗1号車)。全長4496×全幅2120×全高990mm、ホイールベース:2974mm、トレッド:前1824/後1669mm。車重:506kg。車体構造:カーボンモノコック。サスペンション:前後共ダブルウィッシュボーン/プッシュロッド。デザイナー:ニール・オートレイ/アンリ・デュラン。エンジン型式:RA122E/B。形式:水冷75度V型12気筒DOHC48バルブ。排気量:3496cc。最大出力774hp(577.2kW)/14400rpm、最大トルク未公表。エンジン重量:154kg。
レースはホンダの企業文化であるとし、1978(昭和53)年にレース活動を再開することを発表。4輪には、1980(昭和55)年にまずはF1のひとつ下であるF2に復帰を果たす。ホンダが出資する形で結成したF2チームの「スピリット」とのコンビでF2を席巻し、1983(昭和58)年の半ばから、そのままスピリットとのコンビで15年ぶりにF1に復帰した。
そしてウィリアムズやロータスとのコンビを経て、1988(昭和63)年にはマクラーレンとコンビを結成。アイルトン・セナとアラン・プロストを要し、最強マシン「MP4/4」が無敵の16戦15勝を達成し、セナも初戴冠となった。その後、1989(平成元)年にプロスト、1990(平成2)・1991(平成3)年と2年連続でセナが世界王座となり、その間マクラーレン・ホンダはコンストラクターズも獲得し続け、ホンダとしては1986(昭和61)年から6連続のコンストラクターズ王者となった。
ただし、レギュレーションの変更で1988年シーズンいっぱいでターボエンジンが使えなくなったのを受け、その年をピークとして以降は他チームとの差が詰まっていく。そしてかつてホンダが決別したウィリアムズに後塵を拝することになったのが、1992(平成4)年だった。
ウィリアムズはルノーとコンビを組んでおり、1992年は完成度の高い「アクティブ・サス」などのハイテク装備を搭載した「FW14B」とナイジェル・マンセルの圧倒的な戦闘力がグランプリを席巻した。
そんな逆風の中、セナが死力を尽くして操ったのが、マクラーレン・ホンダ「MP4/7」だった。まさかのマシントラブルを喫したマンセルをギリギリでかわしたモナコGPでの優勝などで知られる1台だ。その技術的な特徴は、マクラーレンとホンダが協力して開発した、「フライ・バイ・ワイヤー・システム(電子制御スロットル)」を搭載したこと。また、プログラムシフトダウンができたのもこのときは同車だけだった。
撤退を宣言したあともホンダはマクラーレンと共に「MP4/7」の改良を続け、最終戦のオーストラリアGPに至って遅まきながら「FW14B」に匹敵する性能となり、セナがマンセルにプレッシャーをかけながら追う展開に。しかし両者が接触してリタイアし、最終的にやや棚ぼた的な展開だったが、セナの僚友のゲルハルト・ベルガーが優勝。ホンダは通算で71勝目を達成し、第2期は終了となった。
シャシーの型番の末尾に「A」の文字があるのは、「B」を送り出す予定だったからだが、結局「B」はデビューしなかった。なお、ウィリアムズの「FW14B」のアクティブ・サスは、基本的にはパッシブで、それを一部能動的に補助する「リアクティブ・サス」だったが、マクラーレンとホンダが取り組んだアクティブ・サスは、あらゆる路面の凹凸に対して能動的に対応する「フル・アクティブ・サス」だった。その駆動のためにエンジンのパワーが想定以上に割かれてしまい、それがタイムが伸びなかった原因のひとつと公式発表されている。また、チームがハイテク装備の塊である「FW14B」の熟成に時間がかかると読み誤ったことや、ホンダパワーに頼り切ってしまっていて、マシン開発がライバルと比べて何年も立ち後れていたことなども理由だったという。
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第3期で最高の年間ランキング2位を獲得!
佐藤琢磨が3位に入賞! BAR・ホンダ「006」(2004年)
B・A・R ホンダ「006」(2004年、佐藤琢磨選手搭乗10号車)。全長、全幅、全高すべて未公表。ホイールベース:3150mm、トレッド:前1460/後1420mm。車重:600kg。サスペンション:前後共ダブルウィッシュボーン/プッシュロッド。エンジン型式:RA004E。形式:水冷V型10気筒。排気量:2998cc。最大出力900hp(671.1kW)以上/18500rpm以上、最大トルク未公表。エンジン重量未公表。燃料容量:150L。
ホンダの第3期は、2000(平成12)年からになる。当初、第1期と同様にシャシーとエンジンの両方を手がけるフルワークス参戦が検討されたが、最終的には第2期と同じエンジンサプライヤーの道を選ぶ。そしてコンビを組む相手としたのがB・A・Rだった(2000~2002(平成14)年はジョーダンにもエンジンを供給した)。
そして、そのタイミングに合わせるように、世界から注目されるようになった若手日本人ドライバーがいた。佐藤琢磨選手である。激戦で知られるイギリスF3選手権の2001年王者となり、F3世界一決定戦のマールボロ・マスターズとマカオF3も制するなど、快挙を達成。英語も積極的に身につけるなど、これまでにない日本人ドライバーとして、最も期待される形で2002年にジョーダン・ホンダから、日本人7人目となるF1フルタイムドライバーとなったのだった。
2003(平成15)年はB・A・R ホンダのリザーブ兼テストドライバーとして日本GPなどにスポット参戦。そして2004(平成16)年は、同チームのセカンド・ドライバーとしてフルタイムF1ドライバーに復帰したのである。
画像のB・A・R ホンダ「006」がそのときのマシンで、第9戦アメリカGPでは日本人として14年ぶりとなる3位入賞を果たし、表彰台を獲得。また、ドイツ・ニュルブルクリンクでの第7戦ヨーロッパGPでは、ミハエル・シューマッハに次いでの予選2位も忘れてはいけない。
「006」の活躍は、シーズン前に前年型「005」のリア部分を「006」型にした改良型マシンを用いて、ブリヂストンタイヤでテストをしたことが大きいという。シーズンインしてからはミシュランタイヤにスイッチしており、このシーズンに両タイヤで走れた唯一のチームであったことが、躍進の理由のひとつだったという。
その後、2005年にホンダはB・A・Rを買収してオールホンダとして参戦。しかし、第3期はこの2004年がシーズンランキング2位で最高位となった(勝利数は2006年にジェンソン・バトンが1勝、通算72勝となった)。この年以降、それを上回る順位を獲得できずにいたところにもってきてリーマンショックが世界中を襲った。そしてホンダもその影響を免れることはできず、2009年のマシンを開発中だったにもかかわらず、急遽撤退を決定。こうして、第3期は終了したのであった。
B・A・Rとは、元々ブリティッシュ・アメリカン・レーシングの略だったが、途中から略称のB・A・Rを正式名称とした。ブリティッシュ・アメリカン・タバコがスポンサードしており、「LUCKY STRIKE(ラッキーストライク)」は、同社のブランド。2000年代前半まではタバコメーカーのスポンサードで、タバコの銘柄のロゴをボディに描くのは一部の国を除いて許されていたが、今では不可能。
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マクラーレンとの3年とトロロッソとの2018年!
第4期のマシンを紹介!
これまで、ホンダ第4期のマシンは、1台ずつ、もしくは東京モーターショーの記事のひとつとして紹介してきたので詳しくはそれぞれの記事をご覧いただきたい(リンク先はすべて新しいタブが開きます)。
マクラーレン・ホンダ「MP4-30」(2015年)
マクラーレン・ホンダ「MP4-30」。2015年、ホンダ第4期1年目のマシン。ただし、カラーリングやスポンサーロゴは2016年仕様。1992年以来、かつての黄金コンビを復活させた。当時はマールボロ・カラーなので、ちょうど日の丸カラーと同じ紅白だったが、黒地にアクセントとしてオレンジが入るカラーリングになった。記事はこちら。
マクラーレン・ホンダ「MP4-31」(2016年)
第4期の2年目のマシンである、マクラーレン・ホンダ「MP4-31」。なお、かつては「MP4/7A」のように、「MP4/」で始まっていたが、1997シーズンから「MP4-」に変更となった。これもまた黒が全面に施されたマシンで、オレンジやピレリの黄色がアクセントとなっているほか、ボディのスポンサーロゴはすべてホワイト。記事はこちら。
マクラーレン・ホンダ「MCL32」(2017年)
厳密には2016年型「MP4-31」を、2017年のマシン「MCL32」のカラーリングに変更したマシン。残念ながら、ホンダとマクラーレンは第2期のような輝かしい成績を残すことはできないまま、コンビ解消となった。「MCL32」についてはこちら。
レッドブル・トロロッソ・ホンダ「STR13プロトタイプ」(2018年)
ホンダは、第4期4年目において、中堅チームのスクーデリア・トロロッソとコンビを組んで戦うことを選択した。このマシンは、昨年型マシン「STR12」に、18年仕様のエアロパーツを装着し、カラーリングを施したもの。「STR13プロトタイプ」とされている。記事はこちら。
2018年5月15日(JAFメディアワークス IT Media部 日高 保)