5月1日はアイルトン・セナの命日 秘蔵写真を公開!
アイルトセン・セナが事故でこの世を去ってから四半世紀近くが経つ。そんなセナがマクラーレン・ホンダ時代、2回目と3回目のワールドチャンピオンとなった1990年と1991年に二人三脚で彼を支えた人物がいる。ヘルメットマンこと元ホンダの川崎和寛氏だ。今回、川崎氏が個人的に秘蔵していたセナと共に写っている3枚の写真のWebでの公開許可をいただいた。川崎氏の話と共に写真を掲載する。
故アイルトン・セナ。2018年5月1日で、彼が事故死してから24年になる。この写真は1990年の第6戦メキシコGPの予選後、急遽打ち合わせとなった時に撮られたもので、その一部を拡大した。寂しげな表情に見えてしまうのは、彼がすでに故人だからという思いのせいなのだろうか。この写真のフルサイズのものは3ページ目に掲載した。画像提供:川崎和寛氏
1987年からフジテレビで独占中継が始まると、日本でF1は大ブームとなった。その立役者のひとりで、”最も日本人に愛された外国人ドライバー”と当時いわれたのが、故アイルトン・セナである。天才といわれ、勝利のためならあらゆるものを犠牲にするようなストイックな姿勢が日本人の心に響いたのか、セナ本人も「日本は第2の故郷」というほど大人気となった。
そんなセナのF1デビューは1984年。トールマンからだった。翌年、当時の名門ロータスに移籍し、中継の始まった1987年には中嶋悟と共にロータス・ホンダ「99T」をドライブ。1988年にはF1ドライバー人生で最大のライバルとなるアラン・プロストと共にマクラーレン・ホンダ「MP4/4」を駆り、16戦中15勝(セナ8勝、プロスト7勝)という快挙を達成。そして、自身も鈴鹿サーキットでの日本グランプリで初の世界王座を獲得した。
その後、1990年と1991年にも王座を獲得し、通算3度、世界王者となった。しかしその後は、マクラーレンのマシンの性能が劣るようになってなかなか勝てなくなり、4度目の世界王座を求めてウィリアムズに移籍した1994年5月1日、第3戦サンマリノGPで事故に遭い、34歳という若さで帰らぬ人となってしまったのである。
そんなセナのF1人生で、2回目・3回目の王座獲得となった1990年と1991年の2年間、ホンダのヘルメット担当スタッフとして、二人三脚で支えた人物がいる。それが、川崎和寛氏だ。当時TV中継の実況を担当していた古舘伊知郎氏が名付けた”ヘルメットマン”の愛称を覚えている方もいることだろう。
ホンダはエンジンだけを供給していたイメージが強いが、この2年間だけ「レオス」というブランド名でマクラーレン・ホンダのドライバー2人にヘルメットを供給しており、そこで重責を果たしたのが川崎氏なのである。セナが2年連続で世界王座を獲得できたのも、川崎氏がいたことも理由のひとつとされているほどの人物なのだ。
川崎氏はセナの要望を聞いて1gでも軽いヘルメットを開発するだけでなく、スタッフとして毎レース帯同。ヘルメットのスポンサーロゴ貼りやシールドへの捨てバイザー貼り、無線機のセッティングや導通チェックなど、ヘルメットにかかわるありとあらゆる作業を行った(普通はドライバー自身が行う)。
また豊富なレース活動の経験などから、時にはTカー(予備のマシン)のコックピット内にパッドを貼り付けるような作業も、当時のマクラーレンの総帥ロン・デニスに任されていたという。セナも、川崎氏が帯同することを契約書に加えるほど信頼を寄せていたという。
今回、そんな川崎氏に当時の話を伺うことができた。それと同時に、川崎氏が個人所有するセナとの3枚の写真について、Webでの公開許可をいただいた。
1990年と1991年の年間、ホンダのレオス担当として、サーキットに帯同してセナのサポートをした川崎和寛氏。当時のさまざまな話を聞かせてくれた。現在はホンダを定年退職し、トークショーなどで個人的にセナのことをファンに伝えているという。なお、セナのヘルメットを開発していたということで、現在でも川崎氏に「ぜひ」と自分のヘルメットのデザインを依頼してくる方が年間に何人もいるという。
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まずはモナコGPでのカットから!
1990年第4戦モナコGP・スペシャルなシールドを手入れ中
第4戦モナコGPで、セナのシールドをクリーニングする川崎氏。シールドが薄紫色という珍しい色をしているのは、このGPからセナのヘルメットにのみ装着されることになった、ポラロイドシールドを備えた「セナスペシャル」だからだ。日光が当たるとスモークに、暗くなると一瞬でクリアーになるのだが、当時F1でセナしか使っていなかった秘密兵器である。薄紫色なのはピット内のため、トンネル内ほど暗くないが、直射日光が当たっていないため。写真左上のサインは、セナの直筆。画像提供:川崎和寛氏
これは、1990年5月24~27日に開催された第4戦モナコGPでの1カット。ポイントは、シールド(バイザー)が透明でもスモークでもなく、薄紫色という変わった色味をしていること。
モナコGPのモンテカルロ市街地コースには長めのトンネルセクションがあるが、強い陽光を防ぐための従来のスモークタイプのシールドだと、突入した瞬間は真っ暗になってしまうという。あのセナですら、さすがに何も見えない状況ではアクセルを緩めてしまっていたそうだ。
そこで川崎氏がセナから依頼されたのが、日が当たる中ではスモークだが、突入した瞬間にクリアーになる特性を持ったシールド。その非常に難しい要望に対して川崎氏が用意したのが、前年に2輪モータースポーツのヘルメット用として既に確立されていた、紫外線を大幅にカットする「ポラロイドシールド」だったのである。
ポラロイドシールドは、専用の溶液にシールドを浸して作る。メガネのレンズ程度なら小さいので問題ないのだが、シールドのサイズになってくると、幅30cm×奥行き30cm×高さ30cmのサイズの容器が必要だ。このサイズの容器に溶液を入れるととてつもないコストになるため、4輪用ヘルメットのシールドとしてはどこも作っていなかった。しかし、こんなこともあろうかと、川崎氏はあらかじめメーカーに用意しておいてもらっており、すぐさまセナの要求に応えたのだそうだ。
土曜の予選で試してみたところ、セナは非常に気に入り、決勝でも使用。大いに効果があったことから、翌第5戦カナダGP以降も常用したそうである。雨が降っても路面の乱反射を抑えられるため、モナコのトンネルのような特殊な環境だけでなく、天候次第では非常に有効なのだそうだ。
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勝利を得るためには手を抜かなかったセナの姿!
1990年第6戦メキシコGP予選終了後・緊急ミーティング
着替え終わってホテルに向かう途中だったセナは、ひとり荷物置き場に居残っていた川崎氏を見つけ、緊急ミーティングとなった。写真は、その際の様子。ちなみに、後ろに置いてあるヘルメットの内、中のパッドが緑色の方が本番用で、白い方が予備。パッドの表面に使われている布地を緑色に染めるのは大変費用がかかるのだが、セナのたっての希望でそれを叶えたのだという。セナは母国の国旗の色であることから、非常に感動し、喜んだそうだ。画像提供:川崎和寛氏
続いては、1990年6月22~24日に行われた第6戦メキシコGP(エルマノス・ロドリゲス・サーキット)の予選終了後(23日)に撮影されたもの。これが1ページに紹介した写真の全体像だ。どこで撮影されたかというと、荷物置き場だったという。
川崎氏がひとり居残りしてテストで得たさまざまなデータをまとめていたところ、着替えてホテルに帰ろうとしていたセナが声をかけてきたのだそうだ。そして、いくつもの質問をしてきて、川崎氏はレポートを見せながらそれに答えるという具合で、結局ミーティングになってしまった。普段着に着替えた状態で、ここまでセナが真剣な表情で話をするのは珍しいことだったという。
ちなみに、ヘルメットはドライバーがマシンに乗り込んでから被るそうで、それをサポートした川崎氏によると「乗り込んで6点式シートベルトを着用してやり(6点式はドライバーが自分で着用できない)、ヘルメットの下に被る耐火インナーマスクを渡してやり、それからヘルメットの着用を手伝い、最後にヘルメットとマシンの無線のケーブルを接続しました」という。川崎氏は、すべて準備が整って問題がないのを確認してから、グッドラックと送り出す役目だったのだ。
なお、マクラーレンの総帥ロン・デニスは完璧主義者であることから、レースでは実際に被るヘルメット、予備、そして雨用と3種類を用意するように指示されたそうだ。その結果、セカンド・ドライバーのゲルハルト・ベルガー用も含めて毎レース6つのヘルメットを準備していたという。1人に3つも用意するのは、当時はマクラーレンのみだったそうで、そこまで完璧を期したのがロン・デニスだったのである。
スポンサーロゴも川崎氏が毎回貼り付けていたわけだが、貼り付ける位置が細かく決められており、精密さを要求される作業だったという。写真で見えるスポンサーについて簡単に説明すると、「ACURA」とはホンダの北米~中米でのブランド。「NACIONAL(ナシオナル)」はセナのパーソナルスポンサーでブラジルの銀行だ。そして、「BOSS」はメンズアパレルだ。
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日本GPでの祝杯の様子!
1990年第15戦日本GP決勝・2度目の王者獲得の祝勝
撮影されたタイミングは、実は1990年の日本GPの決勝真っ最中。セナはスタート直後の1コーナーでプロストと絡んで、まさかの両者リタイア。マクラーレンのピットは再スタートに備えて、Tカー(予備のマシン)をセナの決勝用にセットアップするなど、1秒を争うような戦場状態だったそうだが、本人は着替えも済ませて早速の祝杯モード。川崎氏も予備のヘルメットの無線機のチェックなど、準備で大わらわだったそうだが、「スマイル、スマイル」とセナに笑顔を求められて撮影したのがこの写真と、苦笑気味に話してくれた。左上のサインはセナの直筆。画像提供:川崎和寛氏
この写真は、第15戦日本GP(10月19~21日)の決勝で、2度目の王座を決めた直後に撮影されたものだ。実はこのとき、セナはチャンピオンを決めて満面の笑みだが、微妙な状況だった。というのも、レースが再スタートでやり直しの可能性もあったからで、川崎氏を初めとするスタッフはその準備でとても余裕のない状況だったという。
この年のF1はプロストがフェラーリに移籍したものの、セナが初めて世界王者になった1988年から続いてきたセナ・プロ対決の3シーズン目。しかもセナとプロストの間柄は最強のライバル関係というより、1989年日本GPでの「シケイン接触事件」などもあってもはや「因縁の間柄」となっており、強烈に火花が散る状況だった。
1990年は第15戦日本GPを迎えた時点で、前年とは立場が逆転してセナがポイントリーダー。昨年の意趣返しではないが、両者が接触して同時リタイアとなれば、最終戦を待たずにセナの王者が決定するという状況だったのである。
そしてスタートし、その「まさか仕返しはないだろう」が現実となる。セナはプロストと絡んで第1コーナー外側のサンドトラップの中に突っ込んでいった。砂煙が晴れて見えてきたのは、目を疑う両者のリタイアだったのである。ふたりの熱いバトルを期待していたサーキットの大半の観客は決勝でのふたりの走りを1周も見られないという状況で、それはそれは大変な落胆を招くこととなったのである。
その一方で、再スタートもあり得るということで、ピットは大わらわ。川崎氏も予備のヘルメットの準備で多忙を極める中、撮影されたのがこの写真だったのである。
セナが事故死してからほぼ四半世紀が経つ。セナの記憶を風化させないためにも、彼を応援して当時一喜一憂したという人も、当時を知らない若い人も、彼に思いを馳せてみてはいかがだろうか。
2018年4月25日(JAFメディアワークス IT Media部 日高 保)