「やればできる」のホンダイズムを具現したS600
「ホンダS600」(1964~1965年)全長×全幅×全高:3,300×1,400×1,200mm 軸距:2,000mm 車重:715kg エンジン:直列4気筒 606cc 4連キャブレター 出力57ps/8,500rpm トルク:5.2kgm/5,500rpm 最高速:145km/h 変速機:4段MT サスペンション:F・ダブルウイッシュボーン・トーションバー/R・トレーリングアーム+コイル 価格:509,000円
果敢なチャレンジ精神が生んだS500、S600
今から50年以上前、1964年のことだ。まだ小メーカーだったホンダは、それまでバイクレースのマン島TTや世界GPには挑んでいたが、無謀にも四輪の生産開始とほぼ同時期に、モータースポーツ最高峰のF-1に挑戦した。
当時のF-1エンジン規定は、1.5リッター。そこで125㏄のバイクエンジンを12個つなげるという発想で、V12エンジンを開発。出力は220ps/12000rpmだった。気筒数を増やすことは重量的に不利だったが、その後パワーアップを施し、ついに初参戦翌年の最終戦メキシコGPで優勝を果たした。ドライバーはリッチー・ギンサーである。こうした果敢な挑戦によってホンダの名は短期間に世界に轟いた。
このことから、高い目標を掲げて「やればできる」という信念が、ホンダ哲学の一つとなった。そのためホンダには”哲学車”が多いのだが、なかでもS600はその筆頭であると思う。
S600の前身は、62年の全日本自動車ショーに登場したS360とS500の2台のスポーツカーを展示したことに始まる。この格好いいスポーツカーを一目見ようと、黒山の人だかりができた。そして、新聞紙面で市場調査を兼ねた価格クイズも行った。いくらなら買うかというもので、応募数が最も多かったのは、48万5000円。しかしホンダは、その期待を上回る45万9000円で出したのだ。DOHCのオープンスポーツがこの値段で手に入るのかと、クルマ好きのみならず多くの人々の話題をさらったのは言うまでもない。このときS500のみが販売され、1年後にS600が登場し、その後S800やクーペボディも追加された。
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S600がどれほど高性能だったのか
S600がどれほど高性能だったのか
S600の魅力的なデザインは、社内の森泰助氏が担当したが、ご多分に漏れず本田宗一郎氏が随所に手を加えたため、実質的には2人の共同作業であったようだ。
さらに、他社では行わないユニークなアイデアやメカニズムが随所に織り込まれた。自動車製造の経験不足であったため、独自の技術で補おうとしたのかもしれない。特にエンジンがすごかった。他車がまだプッシュロッドのOHV全盛の時代にDOHCとし、9500rpmも回した。そしてわずか606㏄から57psを絞り出したのだ。時計のような緻密なエンジンには、バイクのようなケイヒンの4連キャブが付き、エキゾーストマニホールドも等長のタコ足である。まさにF-1さながらのエンジンだった。
サスペンションも凝っていて、リジットアクスルを採用する車が多い中、4輪独立懸架を採用。フロントサスはダブルウイッシュボーンとトーションバーの組み合わせだった。面白いのはリアサスで、後輪をチェーンで駆動し、このチェーンケースがトレーリングアームを兼ねたのだ。そのためスタート時にアクセルを踏むと駆動の反力で、ぴょこっと尻を持ち上げてダッシュした。バックでは反対に、尻が沈み込んでいた。
当時、我々レース好きの間での話題は、鈴鹿サーキットで3分07秒を切れば、ホンダがレーシングドライバーとして採用するということだった。私もそれに挑戦するため、東京から鈴鹿に通ってタイムアタックを行った。
まだ東名など完成しておらず、一般道で箱根を越えて、朝、鈴鹿に着く。休む間もなく、自分のフェアレディSP310でアタックするも3分14秒。次に式場壮吉氏のS600をお借りすると、排気量が半分以下にもかかわらず3分07秒を切った。7秒もの短縮である。高回転型のエンジンとフットワークの良いサスペンションは、重くズルズル滑るSPとは別物だった。結局、このときはホンダのレーサーにはならなかったが、いかに〝エスロク〟が速いかを思いしらされた。
文=立花啓毅
1942年生まれ。ブリヂストンサイクル工業を経て、68年東洋工業(現マツダ)入社。在籍時は初代FFファミリアや初代FFカペラ、2代目RXー7やユーノス・ロードスターといった幾多の名車を開発。
(この記事はJAFMateNeo2015年1/2月号掲載「哲学車」を再構成したものです。記事内容は公開当時のものです)