『サーキットの狼』の原点を探る。漫画家・池沢早人師の仕事術とカーライフ<前編>
1970年代に週刊少年ジャンプに連載され、スーパーカーブームの火付け役となった大ヒット漫画『サーキットの狼』。その作者である池沢早人師先生に、いまだから明かせる漫画制作秘話から、ご自身のカーライフについて話を伺った。今回はその前編をお届けする。
『サーキットの狼』誕生前夜
1974年12月から1979年まで週刊少年ジャンプ誌上で連載された自動車マンガの金字塔、『サーキットの狼』。
1970年代後半に巻き起こったスーパーカーブームの立役者であると断言して間違いなく、単行本の累計発行部数は実に1800万部以上。そして2021年の今も、1970年代をリアルタイムで知る世代に強い影響を与え続けている。
もしも『サーキットの狼』という作品がこの世に存在しなかったとしても、現在のニッポンに自動車文化は存在しただろう。だが、現在のそれとはずいぶん異なるものになっていた可能性は高い。
そんな作品をゼロから作り上げた池沢早人師(連載時の筆名は池沢さとし)とは、きっと幼少期から大の車好きで、スーパーカーを含む古今東西の名車のスペックをすべて暗記しているような少年期を過ごし、18歳になると同時に運転免許を取得した人物――というようなイメージがあるかもしれない。
だが事実はまったく異なる。
「家の中で絵ばかり描いているような少年で、車については”くの字”も知らなかった。そして早い段階で『漫画家になる!』と決めてからは勉強そっちのけで作品作りに没頭し、高校在学中に少年ジャンプの賞を取ることができたんです」
そして週刊少年ジャンプ誌上で『サーキットの狼』の連載が始まった……かといえば、そうでもない。池沢が最初に描かされたのはギャグ漫画だった。
「『あらし! 三匹』とかね。読者アンケートで1位を取るほどじゃなかったけど、まあまあ人気はあったんですよ」
〈ギャグ漫画を描く〉というのが池沢の本意であったかどうかはわからない。だが「漫画家になる」という夢を実現し、読者アンケートでも中位以上の人気を維持する作品を作り続ける日々は、少なくとも充実はしていた。だがこの時点でもまだ、池沢の前に”車”は現れていない。運転免許も持っていなかった。
そして”車”は唐突に現れた。若き日の池沢が住んでいたアパートのごく近くに。
「初代日産フェアレディZ。当時はそんな車名すら知りませんでしたが、それが、当時住んでたアパートの近くに停まってたんですよ。で、『うわっ! 何なんだこの美しい物体は!』と驚愕し、それに自分も乗りたいと思って、運転免許を取ることにしたんです」
しかし池沢は最初、初代フェアレディZを手に入れることができなかった。担当編集者の猛反対にあったのだ。
「スポーツカーなんか乗ったら絶対にスピードの出し過ぎでケガをするし、ケガをしたら漫画が描けなくなるからって理由で大反対されましてね。それで渋々、編集者に勧められた車を買ったんですよ。トヨタのコロナ1700SLというオヤジくさいクーペを(笑)。でも嫌で嫌で仕方なくてね。結局は半年も乗らず、ジャンプには内緒でフェアレディZを買っちゃったんですが(笑)」
そして池沢が日産フェアレディZの魅力に、いやスポーツカーの魅力に気づき、のめり込んでいくなかで、日本の自動車文化史を変えることになる「運命の出会い」があった。それも、2回も。
「当時、中野区の新井薬師というところに住んでたんです。いい町ですが、まぁ地味な普通の町ですよ。そんな新井薬師の狭い商店街を、なぜかトヨタ2000GTが走っていたんですよね。あまりの美しさに……衝撃を受けました」
言わずと知れた伝説の名車であり、生産台数わずか337台でしかなかったトヨタ2000GTが、なぜか新井薬師の商店街を、しかも池沢がたまたま歩いていた瞬間に走っていたというのは、天の配剤だったのだろうか?
そして天の配剤はさらに続いた。
「その次にね、なぜかまた新井薬師の商店街を走ってたんですよ、ロータス ヨーロッパが」
後に『サーキットの狼』の主人公・風吹裕矢が作中で乗ることになるロータス ヨーロッパ。池沢が1974年12月に同作の連載を開始することで、日本でもしばしば見かけるようになる英国のライトウェイトスポーツだが、1970年代初頭のそれはNASAの宇宙船並みに激レアな存在だった。そんな激レア車がなぜか新井薬師の商店街を、しかも池沢がそこを歩いていた瞬間に、通りかかった。
運命の歯車が、『サーキットの狼』誕生に向けて回りはじめた。
<中編へ続く>
(文中敬称略)