日産・パイクカーシリーズ
自動車ライター下野康史の、懐かしの名車談。バブル期に大人気だった”アンチ未来”カー「日産・パイクカー シリーズ」。
イラスト=waruta
「なんでもあり」の80年代をひとつ象徴する国産車が、日産のパイクカーシリーズだった。パイクカーの”pike”とは「槍の剣先」のこと。「トンがったクルマ」くらいの意味だろう。
87年にローバーミニ風のBe-1が登場し、サファリカー風のパオが89年に続き、90年代に入ってから、フィガロが出た。1万台といわれたBe-1を初めとして、いずれも限定生産。ベース車両は3台すべて初代マーチで、生産委託を受けた高田工業でつくられた。少量生産であることから、ボディー外板に樹脂パーツが多用されたのが特徴のひとつといえる。
トンがったデザインと”限定”が引きとなって、とくに第一弾のBe-1はプレミアがつくほどの人気を呼んだ。当時、ローバーミニの販売店には、買えなかったBe-1とそっくりのクルマを見つけて訪ねてきた、というお客さんがけっこういたとか。
パイクカーシリーズは新車のときにすべて試乗しているが、どんな乗り味だったかは、不思議と記憶がない。しかしそのなかでもクルマとしていちばん印象に残っているのは、91年2月に出た最終3作目のフィガロである。限定2万台のうち、第一期の販売台数は8000台。バレンタインデーの発売日から1ヵ月の申し込み期間に21万件の応募があった。フィガロと結婚するのはタイヘンだったのだ。なんて、うまいこと言わせてくれただけでなく、クルマとしてもなかなかの意欲作だった。
987cc4気筒NAだったBe-1、パオに対して、フィガロにはターボ付きエンジンが搭載された。2ドアクーペボディーの上屋は”フルオープントップ”と呼ばれ、リアの収納リッドのフタを開け、ソフトトップをしまうと、ボディーのサイドパネルだけを残して青天井にすることができた。いわばセミオープンカー。操作は人力だが、慣れれば、ひとりでも30秒とかからなかった。
メーカーから借りた試乗車で走っていると、どこでも注目を浴びた。高速道路で追い越し車線に出れば、前のクルマはたいていすぐに道を譲ってくれた。およそ押し出しのきかないヘタウマ漫画みたいなファニーな顔つきなのにどうして? と思ったが、たぶんみなさん、噂のフィガロを後ろからじっくり観察したかったのだと思う。
80年代の日本車の大きな流れは、ハイパワー競争である。パイクカーの元ネタだった初代マーチにも、ターボ+スーパーチャージャーの”スーパーターボ”なんていうリトルモンスターが現れた。
その一方で、Be-1やパオやフィガロが生まれ、ツインカムターボスーパーチャージャーに勝るとも劣らない人気を博した。いまで言う「癒し系」の日産パイクカーは、あの時代の必然だったと思う。
文=下野康史 1955年生まれ。東京都出身。日本一難読苗字(?)の自動車ライター。自動車雑誌の編集者を経て88年からフリー。雑誌、単行本、WEBなどさまざまなメディアで執筆中。近著に『ポルシェより、フェラーリより、ロードバイクが好き』(講談社文庫)