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Cars

最終更新日:2017.11.10 公開日:2017.11.10

BMC・ミニ

自動車ライター下野康史の、懐かしの名車談。日本でも愛される、イギリスのアイコン「BMC・ミニ」。

下野康史

イラスト=waruta

 FF大衆車の元祖と言ってもいいのが、1959年に登場したイギリスのミニである。オリジナルモデルはBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)が製造し、オースチン、モーリスのブランドで販売された。

 ミニは2000年まで生産されたが、一度もフルモデルチェンジをしなかった。メーカー名は、ブリティッシュレイランドからローバーへと変遷したが、アレック・イシゴニスという天才設計者が生んだミニそのものが大きく変わることはなかった。エンジンの下に変速機を置いたコンパクトな4気筒エンジン、ゴムの塊を使ったリアサスペンション、それらが可能にした小さなボディなど、革新的な基本メカニズムは最後まで受け継がれた。

 そんな歴史的英国車の晩年を支えたのは、ほかでもない、日本人である。ミニがヨーロッパで活躍したのは、60~70年代。しかしその後、80年代後半あたりから、日本で人気に火がついた。97年の販売台数はトータルで約1万5000台。全盛期の20分の1以下になっていたが、そのうち半分以上の8000台は日本で売れた。89年から日本での販売台数は本国イギリスをしのいでいたのである。

 日本を一番の得意先にするようになって、ミニも大きく変わった。一時は1000ccのみだったラインナップに1.3ℓが復活。高性能モデルの”クーパー”も復刻された。クーラーやエアバッグが標準装備され、本革シートも登場した。そして、信頼性も向上した。

 筆者の家にもローバーミニがいた。中年になってからMT免許を取ったヨメさんの1台目のクルマだった。3年間いちども壊れなかった。クーラーは寒いほど効いた。キャブレター時代の古いミニを知っていると、ミニにクーラーが付き、真夏の渋滞中に使ってオーバーヒートの兆候もみせないなんて、ありえない話である。

 内装の高級化で、室内は家具を置き過ぎた狭い部屋みたいになっていたが、乗り味の基本は最後まで変わらなかった。OHV4気筒はガーガーとうるさいが、そのかわり、間髪を入れぬアクセルレスポンスが気持ちいい。遊園地のコーヒーカップを操るような独特のドライビングポジションには好き嫌いがあったが、好きな人ならレーシングカート並みにクイックな操縦感覚が味わえた。ラバーコーンサスペンションの硬い乗り心地は、疲れているとさぞつらいだろうと思わせるが、好きな人が乗ると、逆に日常の疲れをほぐしてくれた。ミニという機械に自ら参加できるのが、ミニのファン・トゥ・ドライブだった。そんなクルマが日本でブームを呼んだのである。

 最後のミニをつくっていたローバーグループは、94年にBMWに売却され、ミニの生産終了と同じ2000年に解体されて消滅する。その後、BMWが新しいミニをスタートさせたのは御承知のとおりだ。

 オリジナルミニの歴史を刻む英国メーカーが残っていないのは寂しい。だから、もういちど言おう。40年以上生きた20世紀の名車に最後のひと花を咲かせたのは、日本人だったのである。

オリジナルミニの設計者、アレック・イシゴニス。功績が評価され、1969年にはナイトに叙任された。

ミニのポテンシャルの高さに目を付けたのが、1950年代にF1のコンストラクターとしても活躍したジョン・クーパー(右)。後に「ミニ・クーパー」の生みの親となり、現行ミニのハイパフォーマンスバージョンにも、彼の名が冠される。

ミニのスポーツモデル「クーパーS」は、フォード・ファルコンやボルボ・PV 544、シトロエンDSなど並みいるライバルを蹴散らし、1964・65・67年のモンテカルロラリーで優勝した。

コメディドラマの「Mr.ビーン」では、事故に遭ったり、戦車に踏みつぶされたりと散々だった。しかしビーンのよき相棒として、ミニの存在を一層高めた(写真2点)。


文=下野康史 1955年生まれ。東京都出身。日本一難読苗字(?)の自動車ライター。自動車雑誌の編集者を経て88年からフリー。雑誌、単行本、WEBなどさまざまなメディアで執筆中。近著に『ポルシェより、フェラーリより、ロードバイクが好き』(講談社文庫)

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