写真の中のセナが蘇る? アイルトン・セナ没後30年を偲ぶ【オートモビルカウンシル2024】
30年の時を超えて蘇るアイルトン・セナの記憶。かつて報道カメラマンだったモータージャーナリストの原アキラが、一枚の写真とともに振り返る。
アイルトン・セナ、没後30年を偲んで
先日鈴鹿で開催されたF1日本GPは、3日間トータルで22万9千人の観客を集めて大人気だったのだが、1980年代後半から1990年代初頭までのF1日本GPはもっと盛り上がっていたのをご存知だろうか。
それは、アイルトン・セナをはじめアラン・プロスト、ナイジェル・マンセルなど、個性的かつ天才的なスタードライバーが活躍していた点と、V6ターボ、V8、V10、V12など様々な型式のエンジンを製作していたメーカー同士の戦いというわかりやすい構図があったからだ(地上波で生中継されていたという事実も当然あるけれど)。
そんな中にあって、ワールドチャンピオンを3度も獲得して「音速の貴公士」と名付けられたアイルトン・セナと、彼がドライブするホンダエンジン搭載のマクラーレンMP4シリーズは、当時のF1を象徴するドライバーとマシンとしてF1ファンだけでなく広く人々の記憶に残っている。
そんなセナが、1994年5月1日に開催されたF1第3戦サンマリノGP決勝の7周目、高速コーナーの「タンブレロ」を300km/h以上で走行中に謎のコースアウトを起こしてコンクリートウォールに激突し、事故死してから間も無く30年が経つ。
4月12日から幕張メッセで開催された「オートモービルカウンシル」では、そんなセナの没後30年を偲んで、かつて彼がドライブした4台のマシンともに、着用していたヘルメットとレーシングスーツが展示されていた。
写真の中のセナと真っ赤なレーシングスーツ
当時の筆者はカメラマンとして毎年鈴鹿の取材に訪れており、マクラーレンホンダのラストイヤー(MP4/7A)となった1992年のF1日本GPでセナのマシンは、エンジントラブルのため、わずか3周目のS字を過ぎたところでリタイヤ。すぐ背後にあるシケインで撮影していた我々の目の前でマシンを止めることになったのだった。
取材用のニコン1眼レフカメラには望遠レンズばかりを装着していたため、マシンから降りてガードレールにもたれかかったセナをほんの2メートルほどの距離で撮影したのは、首から下げていた私物のライカM4に装着していた35mmのズミクロンレンズ。それが展示中の彼の真っ赤なレーシングスーツをバックに掲げているスマホに保存していたこの写真である。写真の中の彼が着用していたスーツと展示されてものが同じかどうかは定かではないけれども、やっぱり感慨深いものがあったのは確かだ。
展示されていたマシンの一台目は、その前シーズンの1991年にコンストラクターズ/ドライバーズのダブルタイトルを獲得したMP4/6で、搭載するのは735PS以上を発揮したという3.5LのV12エンジン。終盤のギアボックストラブルで6速だけで走行して母国初優勝した第2戦ブラジルGPの結果を聞き、そんなことができるかどうかをマラネッロが検証したもののフェラーリエンジンでは無理だった、というのは有名な話。ホンダV12エンジンのフレキシビリティが証明されたのだ。
マクラーレンホンダのもう一台は、1990年のMP4/5B。89年のセナ・プロの同士討ちに続いて、この年はスタート直後にプロストのフェラーリと激突、コースアウトしたあのマシンだ。結果的にセナが2回目のワールドチャンプとなっている。
シケインでフリー走行や予選を見ていると、ホンダサウンドを響かせながら130Rを全開で通過し、ギリギリまでアクセルを踏みつつ急激なブレーキングで右コーナーに入っていく「フォン!フォン!フォン!フォン!」というシフトダウンの操作(当時はマニュアルシフトだ)はセナが最も早かったのを覚えている。
ブラックとゴールドのJPSロータス97Tルノーは、F1デビュー2年目のセナに第2戦ポルトガルGPで初優勝をもたらしたマシン。雨の決勝では他を寄せ付けず3位以下を周回遅れにしたこと、さらにウェットコンディションの第13戦ベルギーGPでも独走で2勝目を挙げ、「雨のセナ」の称号をいただいたのがこのロータスだ。
最後の一台は、軽量なオールアルミボディのNSXをさらに120kg軽量化した「NSXタイプR」。セナは92年の日本GP終了後にプロトタイプを鈴鹿サーキットで試乗。彼の感想は、「Comfort!」だったという。
記事の画像ギャラリーを見る