石原慎太郎氏が救った東京の青空。「ディーゼル車NO作戦」を再考する
石原慎太郎氏が今年2月亡くなった。作家として、また東京都知事として、歯に衣着せぬ発言で物議を醸した時代の寵児は、いったい私たちに何を遺したのか。石原氏の最大の功績のひとつであるディーゼル規制について、モータージャーナリストの清水草一氏が振り返る。
「ディーゼル車NO作戦」はかくして始まった
私は現在、ディーゼル乗用車を所有しつつ、オープンスポーツカーも持っている。ふだんはディーゼル車の太いトルクや低燃費の恩恵を受けながら、たまにスポーツカーの屋根を外して、首都高でオープンエアドライブを満喫している。
冬の東京の空は抜けるように青く、空気もうまい。さすがに首都高のトンネル中の空気はあまりうまくないが、トンネルを除けばパラダイスだ。
この環境を作り出してくれたのは、故・石原慎太郎氏である。
思えば、現在のいわゆる「クリーンディーゼル」が登場するまで、私はディーゼルエンジンが大嫌いだった。かつてディーゼル車は、トラック/バスであれ乗用車であれ、真っ黒いスス(PM=パティキュレートマター)を吐き出しながら走っていた。大型車はともかく、ガソリン車も選べる乗用車で、あんなひどい排気を自分が出すなんてありえない!
もちろん大気汚染の犯人はPMだけではなく、エンジンから出る「毒」にはいろいろあるが、無色無臭の窒素酸化物より、黒くて臭いススを憎むのは人間の自然な反応だ。20世紀中、日本の大都市部でオープンカーの屋根を開けるなんて、痩せ我慢にもほどがあった。
そんな20世紀が終わる直前の1999年4月、石原慎太郎氏が都知事に就任。その年の8月、ディーゼル車の真っ黒いススの入ったペットボトルを記者会見に振り回し、「こんなものをみんな吸っているんだよ!」とブチ上げてくれた。東京都の「ディーゼル車NO作戦」の始まりである。
東京都の要望に、国が、業界が動いた
ディーゼル車の排気が黒くて臭いのはアタリマエだし仕方ないというのが、当時の日本人の認識だったが、私は以前から、ヨーロッパではトラックやバスが黒いススを出していないことに気づいていた。調べてみると、日本のディーゼル排ガス規制は窒素酸化物には厳しいが、ススに関してはユルユルであることがわかった。
日本のディーゼル車の排ガスは、なんとかしなきゃいけない。そう思っていたところに、石原氏がそのものズバリ問題点を指摘し、剛腕をふるってくれたのである。
実は当時、技術的な解決策はDPF(ディーゼル・パティキュレート・フィルター)の装着くらいしかなかった。窒素酸化物とPMとはトレードオフ関係にあり、欧州並みに窒素酸化物の規制を緩めないと、ススを減らすことができない。だからといって窒素酸化物は増やしてヨシ! にできるはずもなく、石原氏の「ディーゼル車NO作戦」は、ある意味無理難題だった。
しかし、そこでひるんだりしないのが石原さんだ。「とにかくNO!」を突き付けたことで、山が動いた。まず東京都周辺の3県が東京都に同調して、独自のPM排出基準を満たさないディーゼル車の域内走行禁止を実施。ついに環境省もディーゼル排ガス規制強化に動き、日本自動車工業会もそれに従った。
実は、ディーゼル排ガスをクリーン化するためには、軽油の質も改善する必要もあった。軽油に含まれる硫黄分を減らさないと、排ガスを浄化する触媒がダメージを受けるからだ。
そこで国は、軽油中の硫黄分の基準を従来の10分の1に規制すること決めた。石油業界は、数千億円の投資が必要になるため慎重だったが、東京都などの要請によって積極姿勢に転じ、国の規制開始よりも約2年早い2003年から、従来の10分の1、硫黄分50ppm軽油の全国供給を開始。05年からは10ppmまで減らして、世界一クリーンな軽油の供給を実現させたのである。
世の中を変えた石原氏の剛腕
排ガス規制の強化と軽油の質の改善によって、ディーゼル排ガスの浄化は一気に進み、東京の空は徐々に青くなっていった。06年には、日本初のクリーンディーゼル乗用車として、メルセデス・ベンツ E320CDIが日本に導入され、08年には日産 エクストレイルGTがそれに続いた。
この、いい方向へのドミノ倒しは、石原慎太郎氏の剛腕がもたらしたものだ。上に立つ者は、時には無理難題を吹っ掛けて、世の中を変える必要がある。調整型の政治家には決してできないことを、石原さんはやってくれた。その成果に心から感謝しつつ、ご冥福を祈りたい。