ベントレー編(1921~77年)【古き良き英国車の世界】
戦前から70年代までの往年の英国車を紹介する「古き良き英国車の世界」シリーズ。第2弾では、第1弾で取り上げたロールス・ロイスととても縁の深いスポーティな高級車メーカーであるベントレーを取り上げる。
現在はフォルクスワーゲンの高級車ブランドとなっているベントレーは、創業当初はモータースポーツに力を入れる高級スポーツカーメーカーだった。創業者は、資産家の子息として生まれたウォルター・オーウェン・ベントレー(1888~1971)。第1次大戦で英軍にスカウトされるなど優秀なエンジニアでもあった。ベントレー社は、戦後の1919年10月に設立された。ウォルター・オーウェンはテストドライバーの経験が豊富だったこともあり、ベントレー社はモータースポーツにも力を入れ、ル・マン24時間レースなどで活躍したのである。
しかし、メーカーの規模に対して手がけるクルマのクォリティが高すぎたことがあだとなり、1931年に倒産。ロールス・ロイスに買収されて同社のスポーツ部門となった。ウォルター・オーウェンは1935年までロールス・ロイスに在籍したが、保守的なクルマ作りが性に合わなかったようで、しばらくして英ラゴンダ社(※1)に籍を移してそこで活躍。ラゴンダ社がアストンマーティンに買収されたあとも、エンジンの設計などに尽力した。
今回は、ベントレー社初の市販車「3リッター」から、ロールス・ロイスに買収されてから中期の1960年代に誕生した「タイプT」までを取り上げる。
ベントレー社初の市販モデル「3リッター」(生産年1921~26)
「3リッター」はベントレー社初の市販車で、その名の通り、排気量2996ccの直列4気筒エンジンを搭載してる。同車の開発には、1914年に独ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社(※2)が開発したグランプリカー(レーシングカー)「メルセデス 4.5リットル グランプリ・レンヴァーゲン」が参照されたという。中でも、航空機用エンジンの技術が導入された4バルブのSOHCエンジンにウォルター・オーウェンは注目していたようで、「3リッター」にもほぼ同様の機構を備えたエンジンが搭載されている。シャシーはプレススチール製のラダーフレームを備え、サスペンションは4輪ともリーフ・リジッド方式を採用。当時としてもオーソドックスなスタイルだが、リア・アクスル・ケースをリーフスプリングの上に備えたり、ブレーキはフットとハンドの2系統にしたりと、特徴もあった。
「3リッター」にはチューンドモデルも開発され、「スピードモデル」(最高出力85馬力)、最上位モデル「スーパースポーツ」(最高出力90馬力)があった。モータースポーツでは、ジョン・ダフをエースにした「ベントレー・ボーイズ」が活躍し、ベントレー社の名を世に知らしめた。
6気筒化して出力が2倍になった「6 1/2リッター」(生産年1926~30)
ベントレー社が次に開発したのが「6 1/2リッター」(「6.5リッター」ともいわれる)。「3リッター」の直列4気筒エンジンを改良して1気筒あたりの排気量をアップさせ、それを6気筒にすることで6597ccとした。最高出力は140馬力、最高速度は時速135kmをマークし、生産台数は500台以上を記録している。「6 1/2リッター」にもチューンドモデルが追加され、それは「スピードシックス」と呼ばれた。2基のSU(スキナーズ・ユニオン)社製キャブレターを搭載し、最高出力は180馬力に到達。最高速度も時速150kmに迫ったのである。
上画像の「6 1/2リッター」はその「スピードシックス」のさらに上を行く、モータースポーツ用の特別モデルで、創業者の名を冠した「W.O ベントレー」と同等のスペックを持った1台。「W.O ベントレー」はV8エンジンに載せ替えられており、最高速度は時速160kmを叩き出した。その性能とベントレー・ボーイズの活躍により、1929年と1930年と2年連続でル・マン24時間レースを制したのである。
ベントレー車の中で最も有名な1台である「4 1/2リッター」(生産年1927~31)
ベントレー車の中で最も知名度があるとされるのが、「4 1/2リッター」(「4.5リッター」とも)である。ウォルター・オーウェン自らが手がけた初期の車種は”クリクルウッド・ベントレー”と呼ばれており、今も人気が高い。上画像は「4 1/2リッター」のスーパースポーツ仕様「ブロワー」で、55台が生産された(そのうちの5台はワークスマシン)。同車は最も伝説的かつ象徴的といわれるカリスマモデルで、クラシックカーの愛好家の間では、現在も”英国ヴィンテージカーの最高峰”と称賛されている。
「4 1/2リッター」は、「6 1/2リッター」の直列6気筒エンジンを4気筒化した排気量4398ccのエンジンを搭載。そして「ブロワー」は、「4 1/2リッター」をベースにレースレギュレーションに合致させて製造された。同車の直列4気筒エンジンにはスーパーチャージャーが組み合わされており、最高出力はノーマルの「4 1/2リッター」の110馬力に対し、175~180馬力を誇った。強大な出力に耐えられるよう、強化されたピストンやコンロッド、クランクシャフト、シリンダーブロックなどを採用。また軽量化のために、クランクケースにはマグネシウム合金が使われていた。
50年代の最速GTカー「Rタイプ コンチネンタル」(生産年1952~55)
ベントレー社は1931年にロールス・ロイスの傘下となってベントレー・リミテッドと名を改めて再出発すると、ロールス・ロイスの小型モデルをベースにしたチューンドモデルを発表していくようになる(第2次大戦後はそれが逆転し、まずベントレーで試してからロールス・ロイスの新車を発売するという流れとなる)。
1939年にロールス・ロイス「レイス」をベースとして開発されたベントレー「マークV」は、長く改良を重ねながら作り続けられていった。戦後の1946年になって改良型の「マークVI」となり、さらに1952年の改良によって誕生したのが「Rタイプ」である。そしてその中に設定されたのが、名車として語り継がれている「Rタイプ コンチネンタル」だ。名門コーチビルダー(※3)のH.J.マリナー(H.J.ミュリナーとも)が手がけた、空力性能に優れた軽量アルミ製クーペボディが架装された、美しさと性能を兼ね備えたクルマだった。「Rタイプ コンチネンタル」はエンジンの出力を高めてあり、ノーマル車よりも200kg以上の軽量化を実現した空力ボディもあって最高速度は時速185kmに到達。1954年の改良で排気量が拡大されると時速188kmにアップし、当時の世界最速グランドツアラーと称賛されたのである。
ロールス・ロイスと完全な双子車となった「S1タイプ」(生産年1955~59)
「Rタイプ」は1955年になるとさらなる改良が施され、「Sタイプ」に発展した(のちに「Sタイプ」のII型、III型が誕生した関係で、現在では「SタイプI型」を略して「S1」と呼ばれることが多い)。この「S1」と同時にロールス・ロイスから発売された「シルヴァークラウドI」の時代から、両者のクルマ作りは大きく路線を変えることになる。これまではベントレー車とロールス・ロイス車は似ていても外見上の違いはあり、性能はベントレー車の方が上だった。しかし、この「S1」と「シルヴァークラウドI」のときからエンブレムとグリル、そのほかわずかに細部が異なるだけで同一性能の兄弟車となったのである。性能がベントレー車に合わせられ、両車共に最高速度は時速194kmに達した。
またこのときから、コーチビルダー製ボディの架装が大きく減っていく。コーチビルダー製ボディは職人によるハンドメイドの工芸品であり、オーナーの意向を反映しやすいまさに自分だけの1台だった。しかし時代が変わり、コスト高であること、完成までに時間がかかることなどのデメリットが敬遠され、市場ではそこまで求められなくなっていったのだ。その結果、多くのコーチビルダーが経営方針の転換を迫られ、あるいは廃業に追い込まれていった。ただし、そうした状況の中でもコーチビルダー製ボディを架装したモデルも少数ながら製造されており、上画像の「S1フーパー」もその1台。高名なコーチビルダーの1社であるフーパーが手がけたものだった。
一気に近代化がなされた「T1タイプ」(生産年1965~77)
ベントレー「SタイプIII型」は1965年にフルモデルチェンジして「Tタイプ」となった。それは同時にロールス・ロイス「シルヴァークラウドIII型」が「シルヴァーシャドウ」にフルモデルチェンジしたことでもあった。「Tタイプ」と「シルヴァーシャドウ」も改良型の「II型」が1977年に登場したことから、現在では「TタイプI型」(T1)および「シルヴァーシャドウI型」と呼ばれている。
「T1」(および「シルヴァーシャドウI」)の特徴は、これまでの保守的なモノ作りから一転し、複数の新技術を採用して一気に近代化したこと。後輪も独立懸架方式としたサスペンション(前ダブルウィッシュボーン/後セミトレーリングアーム)、油圧セルフレベリング(車高調整)装置、三重系統の独自方式の油圧システムを使った4輪ディスクブレーキ、従来のセパレートフレームを廃したフル・モノコックボディなどである。外見にも大きな変化があり、前輪のフェンダーラインが露わなクラシックスタイルをやめ、ボンネットとフェンダーがつながった現代的なスタイルとなった。先代よりも一回り小さいボディだが、ボディ形状と駆動系メカニズムの近代化などにより、車内は逆に広くなり居住性はアップした。
しかし、こうした近代化は残念ながら「T1」のヒットにはつながらなかった。逆に「シルヴァーシャドウI」は12年弱の間に2万4000台という、ロールス・ロイス史上最多の生産台数を記録するほどの大ヒットとなったのである。
「T1」の販売台数が芳しくなかった理由のひとつとして、「S1」以降、ロールス・ロイス車の双子車でしかないという、”ベントレーならでは”がなくなってしまったことが挙げられることが多い。ベントレーの存在意義そのものが疑問視されるようになってしまったのだ。しかし、1980年代に入って再びロールス・ロイスとは違うクルマを世に送り出すようになる。かつてベントレー・ボーイズが大活躍したル・マン24時間レースに由来する「ミュルザンヌ」のデビューを皮切りに、「ミュルザンヌ・ターボ」、「ミュルザンヌ・ターボR」と次々と原点回帰のスポーツ色を強めていったのだ。
クルマ作りは続けられていたが、実は経営面では1970年代以降、ベントレーは1931年の時のような激動に再び見舞われる。親会社のロールス・ロイスが航空機用エンジン部門の新型エンジン開発の失敗で経営難に陥り、1971年に国営化。そしてベントレーを含む自動車部門がロールス・ロイス・モーターズとして売却され、1980年にはヴィッカーズ社が買収。同社も20世紀末になると売却を決め、フォルクスワーゲンとBMWが争奪戦を展開することに。フォルクスワーゲンがベントレーを、BMWがロールス・ロイスを保有することで決着し、21世紀初頭、約70年の時を経てベントレーはロールス・ロイスと袂を別つことになったのである。紆余曲折を経たが、ベントレーは現在も高級ブランドとして存在しており、伝統のオーナメント「フライングB」は守り続けられている。