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クルマ最終更新日:2021.04.11 公開日:2021.04.11

スーパーカーブームはかくして蘇る【越湖信一のスーパーカー熱狂時代 Vol.02 ランボルギーニ カウンタック】

イタリア・モデナを中心に、世界を股にかけ取材を続けるカー・ヒストリアンの越湖信一氏が、古今東西、珠玉のスーパーカーを1台ずつ紐解き、当時の開発秘話や裏話を交え紹介していく新連載。第2回目は栄枯盛衰のスーパーカーブームについて。

文・越湖信一 写真・Automobili Lamborghini S.p.A.

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ランボルギーニ・カウンタック LP400

渚のシンドバッドとスーパーカーブーム

 スーパーカーブームは1977年あたりをピークとして日本全国の子どもたちを熱狂の渦に巻き込んだ。そして、このムーブメントによって多くの日本人が自動車に関する知識を身に付けることになった。

 世界の自動車メーカー名やモデル名をはじめとして、気筒数、馬力、トルク、トランスミッションの段数、サスペンションの形式や各部の名称など、こぞって覚えたものだった。いまにして思えば、ある種の刷り込みだったとも言えるこの一大ブームは、その後の日本の自動車マーケットを支えるユーザー層を作り出す、大きな要因になったことは間違いないだろう。

 一方よその国では、フェラーリやランボルギーニの代表的なモデル名など、クルマ好きの日本人なら誰でも知ってて当然と思われる知識について、どうも関心が薄かったようだ。ひとつ面白い話がある。イタリア人がアメリカで遭遇したエピソードをご紹介しよう。

「当時の私は、仕事のため頻繁にアメリカに行き来し、カーマニアたちともよく話をしていた。いつの日だったか、とある男が目の前に停まっていたカウンタックを指差し、真顔で僕にこう話しかけてきたんだ。”コレは凄いクルマだ。カウンタックというメーカーが作ったLP5000と言うんだよ”と。私は彼に、自分がランボルギーニの人間だと言わなくて本当によかったよ」

 そう回想しながら大笑いするのは、ディアブロのチーフエンジニアであったルイジ・マルミローリ氏だ。ブームなんてその程度のもの、ということを理解していた彼は、日本人の多くがクルマに対する正しい知識を持っていることにいつも驚いていた。

ランボルギーニ・ディアブロのプロトタイプとルイジ・マルミローリ氏

ランボルギーニ・ディアブロのプロトタイプとルイジ・マルミローリ氏

 もっとも、日本でスーパーカーブームがメインストリームにいたのはそれほど長い期間ではなかった。当時のブームというものは概してスケールが大きく、1970年代後半にはじまったその熱狂は、あっという間に日本全国に広がったが、その反面、衰退もスピーディであった。

 ちなみに1977年はピンクレディー(※1)が「渚のシンドバッド」でミリオンセラーとなっていた年であり、スーパーカーを展示していたイベント会場では、どこでもこの曲が流れていたことを思い出す。だが1978年あたりになると、すでにスーパーカーブームは相当に下火となっていた。

(※1)ピンクレディー:1976年に「ペッパー警部」でデビューした女性デュオ。ライバル的存在はキャンディーズであった。

スーパーカーブーム:1977年あたりをピークに日本全国の小中学生を熱狂の渦に巻き込んだ自動車ブーム。ブームに火を付けたのは週刊少年ジャンプに連載された「サーキットの狼」であった。

スーパーカーブーム:1977年あたりをピークに日本全国の小中学生を熱狂の渦に巻き込んだ自動車ブーム。ブームに火を付けたのは週刊少年ジャンプに連載された「サーキットの狼」であった。

 ブームの中で日本に生息していたスーパーカーたちは、アイドルさながら高価な”出演料”を受け取り全国の”スーパーカーショー(※2)”を巡っていた。しかし、ブームの当事者である子どもたちがそのスーパーカーを購入できるわけもなかったから、スーパーカーメーカーにとっては、このブームの恩恵を受けることはなかった。

(※2)スーパーカーショー:地方のスーパーマーケットの駐車場から野球のスタジアムまで、あらゆる広場にスーパーカーが出演するスーパーカーショーが開催された。少年たちはフイルム式カメラを携えてショーに押し寄せた。展示車両を貸し出す外車ディーラーにとっては結構な収入となったようだ。

 1973年の第一次オイルショックを皮切りに、大排気量のスポーツカーマーケットは当時、壊滅的な状況にあった。あのフェラーリですら、裏ではトラクターのコンポーネンツを作ったりしていたくらいであったし、マセラティは1975年、ランボルギーニは1978年にそれぞれ経済的破綻していた。

オトナになったスーパーカー少年

 スーパーカーブームが終焉を迎えてしばらくの間はスーパーカー冬の時代となった。そもそも運転操作にクセのあるこれらスーパーカーは日本の自動車マーケットにおいて人気がなかったのだ。

「ギアも入りにくいし、シートも硬い。フェラーリ・デイトナとカマロを交換して欲しいなんていうこともあったなぁ」と話すのは当時のブローカーだ。そう、驚くべきことに、かつてはフェラーリよりアメ車の方が人気があったのだ。そして、底値となったスーパーカーたちは日の目を見ることなく納屋に放置され、時を刻んでいった。

 ところが近年、こうして長期保管されていたいわゆる”納屋物件”に、世界中が注目する事件が起きた。それが”岐阜県産”のデイトナだ。フェラーリ創立70周年イベントで企画されたオークションにかけられ、なんと2億円を超える金額で落札されたのだ。

フェラーリ・デイトナ:365GTB/4が正式名称。1968年にデビューしたV12エンジン搭載のFRクーペ&スパイダー。クラシックカー・マーケットでは絶大な人気を誇る。

フェラーリ・デイトナ:365GTB/4が正式名称。1968年にデビューしたV12エンジン搭載のFRクーペ&スパイダー。クラシックカー・マーケットでは絶大な人気を誇る。

 さてご存知の通り、いまこの小さな島国は、世界有数のスーパーカーマーケットになるまで成長を遂げた。スーパーカーブームは過去のもの? いやいや、44年程前にスーパーカーブームによって子どもたちに植え付けられた”遺伝子”は、今ホンモノのスーパーカーを手に入れることができる立派なオトナたちの界隈で、驚くべきプライスとともに脈々と生き続けているのだった。


越湖 信一(えっこ しんいち)
PRコンサルタント、EKKO PROJECT代表
イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『Maserati Complete Guide』『Giorgetto Giugiaro 世紀のカーデザイナー』『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある 近著は『Maserati Complete Guide Ⅱ』

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